今回のインタビューでは、廣井先生が秋保工芸の里ができた経緯や工芸の里に住みモノづくりをしている職人たちについて触れている。秋保工芸の里の公式ウェブサイトはこちらのリンクから。ウェブサイトは(機械による)翻訳機能もついており各言語での閲覧も可能。
秋保工芸の里は宮城県の仙台市からバスで35〜40分ほど離れた小さな町、秋保にある。仙台駅からは63番のバス停で、かわさきまち行に乗り、秋保工芸の里で下車。タケヤ交通<秋保・川崎 仙台西部ライナー> 冬季に関しては時刻表に変動あり。
秋保工芸の里のパンフレットはメディアのページで閲覧できる。
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ポーラ・カーティス:では、少し、あのう、秋保についての、あのう、話に入りますが、あのう、いつ秋保工芸の里に住むことになりましたか。
廣井道顕:ちょうど二十五年前。ここが、オープンしたですけど、その何年前、三年ぐらい前だから、うんんと今から二十、八ヵ年前、八年ぐらい前かな。あの今度うんと、宮城、県で、あのう、こういう工芸の里みたいなのを作るから、一緒に行かないかって声をかけてもらって。で色々集まって話して、で県に行って話して。であのう街中でだんだんあのう、仕事がやりにくくなってきたんですよね。あのう、うるさいとか、ゴミが立つからとかって、公害だ何だって言われて、仕事がだんだんやりにくくなってて、何とかこう、そういう街中から出て、誰にも何も言われない場所を作りたいなっていう話で。であのう、同じ同業ばかりでなくて、色んな異業種の人たちとも一緒になって。ほんで県に交渉して、ではっていうことで、この秋保、まだ仙台市でなかったんですね、秋保は秋保で、秋保町だったんですけど。で秋保町、秋保と、それから県の、山があるから、でそこを、作って、そこにあのうみんな移るように、したらいいんじゃないかっていうことで。最初二十、二十人ぐらいいたんですよ。で、だんだんだんだん煮詰まってって、最終的に、ええ十二件になったのかな。で順で十二ヶ所土地作ったんけど、結果、入ったのが、うーんと八軒。で空いている場所が四ヶ所あって、で後から、一人、入ってきて、その一人の人が二ヶ所まとめて買って。で今も二ヶ所残ってるんですけど。うーん、で結果的に、オープンした時は、うん?待てよ。オープンの後でツルコさんが買ったのか。オープンした時は八軒だったんですね、八人だったのね。それから二年か、三年ぐらいして一軒入って九軒になった。今九軒で。そのままずっと今も続いてるんですけど。
ポーラ:どのような専門ですか。
廣井:ええと、うんだから、あれ、パンフレット見ると一番分かりいい・・・ここで分る。あぁこれがこけし屋さん。こっちの隣。で、ここはうちね。でこれがそっちの。
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廣井:これはあのお茶の道具。茶道具を作っている人なんですけど。あとそれからそっちの向かいの・・・トイレの脇が箪笥、仙台箪笥。で、その隣がこの彫刻、やっている人で。その向かいっ側の人がこれ後から入ってきた織物をやってる人。この人が後から入ってきたんですけど。でその隣がやっぱりこけし屋さん。この人は元々 秋保の人で。で秋保でこけしを作って、いた人なんですよね。で地元の人、ただ一人なんですけど。
で後はその隣がこれ埋もれ木って、これもあの、もう全国でただ一人になっちゃったんです。埋もれ木細工っていうの、やっている人なんですけど。これ仙台独特のもので、あのう・・・石炭になる前に亜炭というのがあって、その亜炭にまざって埋もれ木っていう、亜炭層から出てきた、あのう、なんというかな。炭化したような、要するに埋もれている木なんですけど。それ削ってこうやるとすごく素晴らしいのができるので。で仙台の名物で、何人も職人さんいたんですけど今たった一人になっちゃってんの。
で、これ、これがその隣で、これがほら、あのう、伝統こけしの先生。私が教わった先生のところ、我妻さんってね。でこの近辺なのか、今。だからあのう、同業の方は二軒、こけし屋さん・・・あ二軒、三軒か。あぁ。こけしやってた人は三軒、あぁ俺もやってたから四軒か。ま、こけし屋さんが多いね。うん。こけし屋さん以外が一店、二店、三軒、四軒。んー五軒か。でこけしやってた 、こけしばかりでなく、こういう轆轤っていうんで色々、ま江戸独楽も含めてですけど、そういうのが四軒で。で九軒ですね。