廣井先生と職人としての生き方

廣井先生が木工職人の生活と現代社会で日本の伝統工芸や芸術を伝え守っていくことの難しさを語っている。

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ポーラ・カーティス:あのう、そしてまぁ職人としての生活にはあのう、一番難しいことが何だと思いますでしょうか。

廣井道顕:一番難しいこと・・・難しいことばっかりだな。(laughs)簡単なのっつうのはないですね。どれが一番難しいって言われると、全部難しいね。一番、逆に嬉しいのが、お客さんとか、買ってもらった人が喜んでくれる。ワァァってやってくれっと、ものすごく嬉しい。後は毎日苦しんでいます。(grins)

ポーラ:(laughs) その、まぁあの難しいことが、もちろん、多いと、おっしゃいましたが、まぁあの時間とともに、ま、多少変化しましたか。何が難しいか、あのその、ビジネスとか、売るのとか。

廣井:まぁ職人として難しさは、やればやるほど難しくなってくのね。あと、売る、売るのは苦手なんだよね。だからね、うん、損ばっかりしてんのね。

ポーラ:で、あの職人の、あの職業がだんだん消えつつあると思いますでしょうか。それはなぜだと思いますか。

廣井:あぁ!そう。これが一番、あのう困ったことだなと思って、あのう・・・なぜか日本は職人て言うと軽く見られるんですよね。で職人がいないと、あのう、日本の大企業だって成り立たないはずなんだけども、なぜか職人は、馬鹿にされるしね、軽く見られるし。あのう・・・行政の方でも職人は軽く見て、何の援助もしてくれないしね。援助が欲しくて言うんではないけど、もっと大事にして欲しいなと思うのね。

だって日本が今こんだけ技術が発達してんだってその底辺ていうか、一番下には職人が必ずいるんですよね。職人がモノを作って、それを今度機会で大量に作ってって。であの、大企業が成り立って。で、その職人がだんだんいなくなってくれば、あのう何か今度やろうつったって何もたぶんできなくなると思うんですよね。だから、職業は、色々職人もあるけども、もうとにかくその職人っていう人をもっと大事にしてほしいなあと。まぁ希望ですけどね。

ポーラ:ではあのう、現在は、昔と比べると、弟子が多かったですか。

廣井:あぁ、うん。だからね。あのう、これはね、なんで弟子を多くしたかというと、あのう伝統こけしをやって、うんん・・・あの、こけしやっている人も何人もいたし。だからそれを集めてる人もいっぱいいたんですけれども。で、こけし描いてて、で売って、あのう収集している人に売って、どうのこうの、あれがダメだの、これがダメだのと、難しいこと言われて、うんと悩んで、でも一生懸命やって、ある程度できるようになって。まぁ本なんかでも、

こけしの本とか必ず名前が載るようになって。でそん時にね、気が付いたんですよ。『あぁ、うちにはこけしよりもっと大事なものがあった』って。こけしはいっぱいこけし屋さんがいて、完全に残っているけど、うちの江戸独楽はうち一軒なんですよね。日本中で。ということは世界中で。それを引き継いだのは俺と弟の二人だけで。日本では、でうちの場合は、あの、こけしみたく一つだけではなくて、何百何千って数があるものですから。一人でそれを再現して残しておくっていうことが不可能だなってのが気付いて。これは弟子をいっぱい増やさなきゃならないと思って。そんであのう、こけし屋さんの、若い跡取りを・・・あのううちに来たんですよ、あのう、これから先こけしだけでは、生活していかれなくなるんでねえかっていうことで他のことも覚えたいんだって、若いのが。

あの時ね、うちであのう、一人、あのう今の前田くんみたく一人あのう、教えてやってたのがいたのね。それがあのこけし屋さんの息子で、あの小原温泉の、人なんですけど、これも有名な人なんですけど、その人の子供で。雄介、本多雄介っていう。それがあのう、白石で、あのう、弥治郎系のこけし屋さんの息子たちの、子供たちの若い人の集まり、で七人いるんだって。で、その雄介が『今自分はこういう所でこういうもの習ってんだ』っていう話をしたらば、みんなそういうの覚えたいなっていうことになったって。で『教えてくれるか』って来たから。本当かってったら『本当だ』って言うのね。で、『みんな連れて来い』っつって。でそん時七人、白石から来たんですよ。では、教えてやったっていうことになって。

でまぁ、うちの品物はこけしと違って、種類がいっぱいあるし、遊び心がいっぱいなきゃならないので、まず『うちに来るんだったら真面目になってないで遊びな』っつったの。したっけ『えええ!』なんてみんなビックリして。へへへ。で、一人、本気になって遊んで、彼女見つけて結婚して。へへ。

今、こけしでは弥治郎で一番ぐらいになってるね。でそいつ、こ、独楽できなかったのね。まだあのう習い始めて半年だかって言うんで、ほとんど独楽できなくて。ほんで、こけし、ま親がこけし屋さんだから、で、まず、でまずこけしやったらいいでねえかっつうことで。で、こけし一生懸命やって。他の人たちはみんな独楽やって。したらみんな親たちにてっきり『怒られるかな、文句言われっかなあ』と思って『大事な、跡取り息子に余計なこと教えた!』なんて怒られるんじゃないかと思ってたら、みんな親たちが来て「宜しくお願いします」ってここでね、みんな頭ついてったね。七人とも。これには、逆にこっちの方でビックリしちゃって。『あぁこれ本気なんだな』と思って、ほんで一生懸命教えてやって。で、大体一人でもう百種類ぐらいは覚えたんのじゃないのかなと思うんですけどね。

ポーラ:あのう、まぁこの職人の職業がその、あのう消えつつある問題についてですが、どうすればいいと思いますでしょうか。あのう、そのまあ、人気があるように。

廣井:あぁ。そうね。

ポーラ:何かできますか。

廣井: そういうのがあると本当いいんですけどねえ。残念なことに日本にはまだそういう制度ないし。もうちょっと、偉い人がさっきも言ったように職人に、えぇ、こう、目を向けてくれれば、少しは、伝統的なものとか、技術が、残るんじゃないかな。で、若い人も、職人に、結構職人になりたい若い人いるんですよね。でも、職人の世界って難しい。で職人っていうのは頑固でなかなか。こう、馴染めないっていう、そっちのイメージの方が多くて恐ろしがってね、へへへ。なかなか『やりたくてもなぁ・・・』っていう人結構多いんですよね。だから、そういう人たちにね、もっとこう、スムーズに馴染んでもらって。育てたいな、と思っていたんですけど。ええと、去年ね、ええと一年半、仙台市で、この工芸の里で、後継者の育成をしようっていうことで市の、市がお金を出してくれて。で五人、入れたんですね若い人を。

で、あー、市で給料を出してくれて。ほんで教える方も、謝礼金として結構なお金、もらったんですけど。一年半続けて、で今年の三月でそれ終了したんですけど。んで結果的に残ったのが、うんと、小竹さんのとこに一人、うちに前田くんいるし、もう一人あのう、みさちゃんって女の子がいるんですけど。三人残ったんですけど。で、そういうことをもう少し続けてやってくれれば、もっと若い人が来ると思うんですけどね。で、あまりこう難しい条件、つけないでやってくれって言うんですけど。で今回はね、そんな難しい条件でなくても良かったし。で五人来て、ま結果三人残ることになったんですけど。大成功でないかなと思うんですけどね。

でこういうことを、こう繰り返し、市ばかりでなくてね、県とか国で、やってくれれば、若い後継者が日本中で結構増えると思うんですけどね。でまあ、同じ職人でもほら、うんとお金のある、所はね、自分の所でどんどん若手を育てることできるけど。我々みたいにお金のないのはね、それこそ前田くんでもみたくアルバイトをしながら、でも習いたいっつうんで来てた。そういう人たちあの、ホンモノになれると思うんですよね。だから、そういうところにね、もうちょっとこう、手を差し出てくれれば、もっと若手育てられて、日本も、もうちょっと豊かになれるような気がするんですけどね。

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