2013年10月13日、テネシー州プレザント・ヒルにあるジャネルの自宅で私たちは口述歴史インタビューを行った。まずペンシルバニア州ボイヤータウンで育ったジャネルの幼少時代について質問を始めた。この音声クリップではジャネルが自分の家族、両親の職業、家族が経験したツラい時期のこと、幼い頃の教会での記憶について語っている。
テーマを明確にするためオリジナルのインタビューを少し編集したクリップとなります。このクリップを文字に起こしたファイルはこのページの下にあります。ジャネルのインタビュー全文はこちらにあります [ 準備中 ]。
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ジャネル・ランディス:ペンシルバニア州ボイヤータウンの生まれよ。正確にはボイヤータウンの隣の小さな村だったみたいだけど、それについて私は覚えてないわね。ふふふ…でも、そう、ボイヤータウンで育ったの。フィラデルフィアから40マイルほど北にある場所。高校もそこ、高校卒業までボイヤータウンで学校教育を受けたわ。ほかに何が知りたい?
マリナ・スーティ [1:05]:ご家族について少し伺えますか。
ジャネル:そうね、あの頃 父と母には娘が一人、私の姉のロアがいた。私は二人目の子どもでね。すごく素敵な二世帯住宅に住んでいたの。私が生涯に家族と住んだ家の中で一番いい家だった。私が3歳か4歳か5歳くらいになるまでそこに住んでいたと思うけど、そうだわ、あれは幼稚園に入る前だったもの。家に帰って勝手口に行ったら差し押さえの貼り紙がしてあったのよ、私たち家族は家を失った。それから別の家に引っ越した、そこにはまだ室内にお手洗いが付いていたわね、2、3年くらいそこに住んだわ。1か月10ドルの家賃で住めるアパートを食料雑貨店の裏手に見つけたこともあったっけ、あははは。 もちろん父は当時政府の元で働いていた。しばらくの間はWPA(Works Project Administration)※に勤めていたわ。
そして、そうね、幼少時代は本当に良かった。7年後に母が女の子を授かって、その一年後にはもう一人、男の子が生まれたの。4人姉弟になったわ。でも私と姉 二人だけの姉妹だったときは世界大恐慌の中でも一番不景気の頃だった。それから景気が少し上向いてきたから、家族を増やしたのね。
マリナ[10:38]:教会へは通いましたか?
ジャネル:ええ。そう。私はドイツ改革派 の出なの、そこはグッド・シェパード教会だったわ。ボイヤータウンにはルター派と改革派の二つの大きな教会があった。子どもの頃、小学校3学年の担任の先生がライト・ブリゲード※に連れて行ってくれたの、月一でね…そしたら誰が先生のカバンを持つかで子ども同士もめて言い合いになってね、ほら、その集会へ向かうときのカバン持ちよ。ルーテル教会の牧師の息子さんとケンカしたのを覚えているわ、たしか私が勝ったと思う。私がカバンを持ったもの。
※light brigade – 教会が開いた子ども達向けの集まり
マリナ[3:02]:お父様はWPAでどんなお仕事を?
ジャネル:WPAは、あの頃、町で路面電車の線路を取り外していたわ。ボイヤータウンを通って、どこか南の方へ行く路面電車があったの、どこまで遠くに行ったのか私も定かじゃないわね、おそらくはポッツタウンの近くまでじゃないかと思うのだけど、でも とにかくWPAは路面電車の線路を外していた。私が覚えているWPAの仕事はそれね。そのこと以外で父が何をしていたかは知らないの。
ジャネル: えぇ、していたわ。母は13、14人兄妹の一人だったの。だから私には いとこが山ほどいてね。当時は私が親戚の子どもの中で最年少だった。いとこたち、おばたち、おじたちがいた。楽しかったわ。 それに父にも男兄弟2人と女兄弟が一人いて、違ったわ、女3人男3人の兄弟だったわね。でも父の両親や親戚もいて。父は母の体調が思わしくなくて私たち子どもの面倒を見られないと思ったから、父方のおば がこの小さな町に来て私たちの面倒を見ることにしたの。私たちの絆は強くなった、本当にたくさんのいとこ、おば、おじに恵まれて、愛情に飢えることなんてなかったわ。
Photograph of Boyertown, PA by Skabat169 published under GNU Free Documentation License via Wikimedia Commons. Photograph of Janell as a toddler via Janell Landis.
次回は『学校でのジャネル』