廣井先生の教え

ジャネルが廣井先生とどうして出会い、仕事をするようになったのか、廣井先生の弟子への指導の仕方から、アーティストのコミュニティの中で快く迎えてもらえた経験を語ったインタビューです。

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マリナ:: では、廣井先生との時間について訊いていきますね。

ジャネル:: えぇ。

マリナ: それでは、廣井先生に初めて会った時のことを話していましたけど、その前に廣井先生について知っていましたか。

ジャネル: いいえ。廣井先生は東京出身で仙台に住むようになったわけだけど、私は先生のことは知らなかったの。アマノさんを通して知って、アマノさんとタカハシさんが手助けするために廣井先生を訪ねていて、二人が廣井先生を見つけたの。新年の番組でインタビューするために凧づくりの職人を探していてね。男の子は凧揚げ、女の子はバドミントンをする。とにかく、凧職人が見つからなくて、ある日本人女性が、小さくて素敵な本屋さんをやってたんだけど廣井先生の知り合いだったの。それで仙台に独楽職人がいると知ったのね。そして廣井先生を見つけたら、具合がよくないことと、生活が苦しいことが判った。だから病院に連れて行って、自分たちを弟子に取ってもらうことにしたの。収入もできて、独楽づくりを再開してもらえるようにね。その頃に、私はアマノさんの奥さんと一緒にあのテレビ番組をやっていた、アマノさんの奥さんが番組助手で日本語担当、私が英語担当でね。まぁとにかく私は、TBSで働くアマノさんとアマノさんのお友達に、番組に出てくれと頼まれたの。それから廣井先生の家に連れて行かれて。廣井先生と奥さんに会ったの、おかしな家で。お店以外に2~3個部屋があって、仕事が終わった後は座ってお茶を飲んだ。

ここにある写真にもその部屋が写っているわ。何が素晴らしいかって、先生は2つロクロを持っていて、1つは先生が仕事をしながらでも、こんな風に私たちのことが見えるところにあったこと。私たちはお互い向かい合うように座ってた。だから、ロクロを使えるようになるまで5~6年かかる陶芸のお弟子さんとは違って、私たちは始めからロクロを使えたの。先生が木を用意してくれて、道具も用意してくれて。先生に手取り足取りお世話になりっぱなしの弟子だった。先生が外国人の私を受け入れてくれてとても嬉しかった、私が真似して作れるように、私のための見本を作ってくれたし。プロのこけし職人のお弟子さんには、ただコンセプトや何を作るか話をして…お弟子さんはそれを作ったら、先生に見せに来る。そしたら先生は悪いところと良いところを指摘してくれるの。こたつに座って他のお弟子さん達のそういう場面に居合わせるのは面白かった。

女性は私と廣井先生の奥さんしかいなかったから、たくさん話を聞いたの。楽しかったわ。こたつに入って話し合ってるのを聞くのが楽しみだった。女子中学校、女子高校、女子大の英語の教師で、色々な場面で生徒を引っ張っていく役割になる私としては、日本人男性とテーブルを囲んで彼らの話を聞くのはそれだけで素晴らしいことだったの。だって話の殆どは独楽づくりのことで、キリスト教の学校で宣教師をしているときとは全然違う友情を築けたから。私を仲間の一人としていつでも受け入れてくれたの。

先生は見本もうまく作ってくれたから、それを見て私は自分で作ることができたわ。2つ作ったのだけど、1982年に作ったのが最初の独楽ね。自分の家族へのプレゼントで、たしか7~8個作ったの。ここに載っている作品の一つよ。その後に作ったのが、教会と7つの小道具の独楽がセットになっている作品。とにかく、ハックルベリーフィンやトムソーヤ、シンデレラとかを先生は作らせてくれたの。ここにある桃太郎と同じように、欧米の物語に対して抵抗のない先生の姿勢が私は好きだった。先生が作ったこの2つの独楽、これじゃなくてこっちの2つ。桃太郎と鬼、鬼は桃太郎の住む村を脅かす悪の存在よね。そして桃の少年。これがお母さんの作ってくれた『きび団子』をキジ、さる、犬にあげるの。そうすると3匹は悪い奴らを退治する手助けをする。何者も恐れず戦って、そして友となる。

興味深い話があってね。以前、8月の広島の日に先生の家を訪ねたあの日は、たくさんの思い出はあるけど、特に印象に残っている日よ。先生がご両親と東京にいた、東京大空襲の時の話をしてくれたの。先生のいた地域は軍需工場のある場所だった。先生の父親は独楽づくりができなくなって、軍事に関わる仕事をしなくてはいけなくなったから、その会社が独楽を買い取って、ロクロも他の独楽づくりの機械もみんな持って行って、それを木工職人がたくさんいる東北の白石市に送ってしまったの。でもご両親は、この時、先生の話だと飛行機がとても低く飛んでいてコックピットで聴いている音楽が先生の耳に届くほどの低さだった。そして辺りを爆撃していった。先生は父親と弟と学校にあるプールに一目散に駆けて行って、幸運にもプールの浅瀬の部分に飛び込んだ。プールの深いところに飛び込んだ人たちは底に沈んで、その上から次々に人がプールに飛び込んで覆いかぶさったから結局みんな死んでしまった。浅瀬の人たちは生き残った。母親と他の兄弟は、1人だったか2人だったか分からないけど、火災で死んでしまった。父親と弟が残されて、会社は3人を白石市に送ったの。

あの頃は酷い空襲から子どもを逃れさせるために、たくさんの家族が自分の子ども達を東北だとかの農家に送っていて、そういう東京っ子が送られた地域に行ったの。同じ地域から来た子ども達もいたけど、農家の人たちは快く思ってなかったのよね。自分たちが食べるだけでも精一杯。私の知り合いもみんな着物だとか売れる物は売ってたみたいだけど、それでも子どもを田舎の農家に送ったの。日本の農家は幸いにもヨーロッパのように軍隊が農場のすぐそばで戦火を交えるような陸戦を経験せずに済んだ。日本人は大都市が空襲にあったけれど、農場はまだ機能してた。都市部の人は食べ物に換えるために金目の物を持って出て行った。でも廣井先生は父親と弟と仙台から電車で1時間ほどの白石市で東北でも有名な木工職人になった。先生と弟さんは江戸独楽職人の生き残り。江戸は東京の昔の呼び名ね。

マリナ:お弟子さんは他にもたくさんいましたか?何人でした?

ジャネル:そうねぇ、何人残ってるのかしら。もうみんな歳をとったから。でも写真が残っていて、そこには、3, 4, 5, 6, 7人。プロもいれば、アマチュアの人もいる。私が独楽づくりを始めた時、弟子の中に仙台市の職員がいて、その人は自分へのご褒美に先生のところに通っていたの。とっても良い人でね、彼が作った独楽を私持っているわ。本当に美しい独楽で、よくその独楽を回して遊んでるわ。そっちの棚に置いてあるやつよ。それはともかく。前田さんという毎日通ってた人とは今も繋がってるの。まだロクロで何か作り続けている証拠ね。

***

マリナ:なぜ弟子になろうと思ったんですか?

ジャネル:そうね、ただ誰かが独楽を買って、誰かにそれをあげて、仙台にそれを作っている人が居ることを知った。私はただ感動したの。あとは、タイミングかしらね。何かを探していたわけでもなかったのよ。ただ偶然そうなった。アマノさんの連絡先を教えてくれた女性に英語を教える番組に出れることになって、とても運が良かった。とにかく、その人物に会ってみないか誘われたの。そしたら弟子になれちゃったのよ!芸術に興味はあったし、絵を描いたりしていたこともあったから。それでも絶対…私の父は木工も得意でね。この家の別の部屋にある大きなデスクも父が作ってくれたの。日本にも持って行ったし、アメリカに戻るときは一緒にこっちに戻ってきたの。でも父は実家の地下の部屋で作業していたわね。私が8年生の時に、7年生と8年生の女子は工作のクラスを履修することが許されていなくて、興味はないけど女子には家庭科なんかはあったわ。でも、弟子になったのはもう運命というものね。

マリナ:相撲セットを買ったのは、先生に出会う前ですか?それとも購入後?

ジャネル:そう、買う前。東京で見つけて買ったから、戦後間もないときも先生はまだ独楽を作って東京で売っていた、恐らく父親の繋がりがあってのことね。先生の父親は東京の人と繋がっていたから、まぁとにかく、東京に一度行った時に買ったの。それをアマノさんの娘さんたちにあげたのよ。楽しんでくれると思って。その時に、凧づくりの職人を探している最中だったのに独楽職人を見つけて、お相撲さんセットの独楽を作ったのがその独楽職人だったと判明したわけ。

マリナ:相撲の独楽をお嬢さんたちにあげてから先生に会うまでの期間はどれくらいでしたか?

ジャネル:そんなにかからなかったわね。数年…もしかしたら1年ちょっとだったかしら。その英語の番組繋がりであることは変わらないから、番組が何年に始まったのか判れば教えてあげたいのに。TBSで1年間やっていて、それで会えたの。

マリナ:何年に弟子になったんですか?

ジャネル:1982年ね。

ポーラ:何年くらい弟子として付いていたんですか?

ジャネル:日本を離れるまで。1995年までよ。最初の2~3年はきちんと習うというより、自分のロクロを手に入れるまでのステップの数年だった。さっき言ったけど、先生が見本を作ってくれて、それを自分で作ってみた。自分で作った独楽を載せた本があるの。これよ。あはは、すごく自由に作らせてもらってたのが見て取れるでしょ。先生は私がシンデレラ、小さなカボチャと、馬だとかを作るのを手伝ってくれたのよ。ふふふ。

マリナ:自分の作品は売りました?

ジャネル:えぇ、売るために作ってはいなかったけど。3年間、廣井先生やお弟子さんの独楽をデパートで販売するイベントをやっていて、今もやっているかどうか知りたくて。1月3~6日の3日間ね。その冊子もいくつか持ってるわ。どこにあるかしら…そこにあるわ。でも、その時に私の独楽も売ったの。人の手助けをする団体がに寄付されたの。自分で覚えてはいないけれど、冊子のどれかには載ってる。独楽で得たお金は、お弟子さんの独楽を売ったお金なんだけど、どこかの、人を助ける団体に寄付されたのよ。

***

マリナ:先生のレッスンを受ける場所まで、どれくらいの距離がありましたか?

ジャネル:レッスンを受けるのに?しばらくは仙台の南部まで行っていて。たいていは夕食時に行っていたわね。あれはイライラしたわ、だって2つの車線だったのが、橋を超えるためには1車線になるし、横入りしてくる車もいるし。先生の家に行く前の時点でもう気持ちが昂っちゃっていたわね。でもとにかく、先生はそこから別の村に引っ越して、そこはもっと遠かった。でも仙台南部にある温泉地にドライブに行くのは前より楽しかった。あとは東京に通じる大きな幹線道路から外れた場所にある場所とかね。でもそこに行く道は落ち着いてたから。いつもそこまで遠くはなかったの。

マリナ:レッスンはどんなものでしたか?

ジャネル:うーん。まぁ、五面の木を渡されて、ロクロに載せて作っていく。先生は自分のプロジェクトで何かを作っていて、私は先生が作っている過程を見ることもできるの。あとは…何か問題があれば先生が私のところまできて見てくれるの。1人でただ作っていく感じ。私がある程度できるようになったら、先生が私専用の旋盤を持たせてくれて、プロのお弟子さんが私の作った物を仕上げてくれて先生がそれを見るのと同じように私もそこで作業したわ。どんな作品を作るか話し合って、それから先生が何か作る…イカダとハックルベリーとトムを作ったの。こたつに集まってやる作業は、計画を立てることね。でも自分で何か作っているときには指導を受けるんじゃなくて、作品づくりをたくさん手伝ってもらっていたわ。

先生が好きだった、だって先生は柔軟で…すごく博識だったし。奥さんとのコンビもすごく面白くて。ご夫婦が仙台にいたときに、奥さんは仙台南部の農家出身で、どこの町だったか覚えていないけれど。お互いの父親が大親友だったの。先生の父親…奥さんの父親が訪ねてきていて。本当に仲が良かったから自分の息子が彼女の父親に…自分の娘が相手の息子にピッタリだと考えたの。でも東京っ子と農家の娘でしょ。奥さんは一度北海道に子守りの出稼ぎに出て家に仕送りしていたの。奥さんの母親は亡くなっていたからだったと思う。農家のつらい生活をする娘、おしけ?おしん、みたいな。そして東京の男性と結婚するの。その男性は日本の民話や童話にとても興味があって、東北の小さな町の農家の出よりも、たくさんの経験をしていると思うの。すごく面白い組み合わせ。奥さんは働く女性、旦那さんは芸術家。この村でお弟子さんがもってくる物の販売は奥さんの仕事。誰がどれくらい利益を得るのかも奥さんが管理する。奥さんはビジネスセンスがあるから。もちろん、家事なんかもお手の物。そして奥さんはーーロクロのところに奥さんの写真があるのよ。先生は奥さんに、物の作り方を教えたわ。まぁとにかく、本当に面白いカップルよ。

マリナ:独楽づくりで一番難しいのはどんなところですか?

ジャネル:一番難しいこと?時間との闘いだったわね。作る時間を取ること。自分のロクロがあると、そこまで移動しないでいいのよ。自分の家で後ろを振り返ればすぐ旋盤があって、宮城学院での教師の仕事が終わったら、制作に取り掛かれる。会議のために働いていた時とは違うから、自分でスケジュールを調整できる。学校で働いていると、この時間までは学校にいるって分かるからやりやすかった。自分の時間があるのに何もやらないと罪悪感を覚えちゃうじゃない?自分がやるべきことをするって中々簡単じゃないし。でも、しばらくしたら、そんなに罪悪感を感じなくなったわ。というか、フラストレーションかしら。だって先生はすごく寛大だったから。私がどんなにダメな物を作ったときだって、優しい言葉をかけてくれるんだもの。あはは。

ここにある写真が、これだから私、先生のこと好きなのよ。下の写真見て。先生が椅子に座って笑ってるの。一度、宴会を開いてみんなでご飯を食べたんだけど。これがアマノさん、これがタカハシさん、そして料理をすべて作ってくれた女性。

***

マリナ:廣井先生がコレクター用に作る独楽と、ジャネルが売り物でない独楽を作ると言っていましたが、そういう独楽との違いというのは、どんなところですか?

ジャネル:えぇ。先生は回しやすい物を作ってた、コレクターはひと味もふた味も違う物を求めてた。だから、そういう物を作って、お店に来てくれた人なら誰でも買えるようにしていた。私が先生に会って最初の頃は、先生はお店を持っていなくて、すごく…言ってしまえば、あばら家みたいなところ。すごく侘しい場所に住んでた。でもこの芸術家の集まった村に入って、素敵なお店も持てた。置いてある独楽のほとんどは自分の弟子の作品。そして、作品が売れたら、ビジネスウーマン・廣井夫人がお金を管理して、例えばマサユキさんの商品が売れたらそこで得たお金はマサユキさんに渡す。全額ではなく、師匠として教えてる料金が廣井先生に少しいくようになってる。委託みたいなもので何かを与えた分、いくらか対価が戻ってくるようになってるの。こんな風に、若いこけし職人が、腕の確かな独楽職人に育っていって、副収入もいくらか得られる一つのモデル。でも一つだけ、先生が面白いルールを作ったの。プロ職人さんが、こけしを作るときは必ず自分のサインを入れさせる。それを集める人たちがいるの。毎年新しいこけしを見て、職人もその分、歳を重ねる。たとえばマサユキさんの作品を毎年見ていたら、マサユキさんの成長を他の年の作品と比べて感じたりできるから。私には理解できないけどコレクターとしての醍醐味の一つね。でも廣井先生は自分の店にある独楽には名前を一つも付けていなかったわ。

独楽を買う人たちに、名前じゃなくて独楽自体を見て選んで欲しかったのね。ここが廣井先生の、こけしと独楽との違いかしらね。先生がコレクター向けの独楽を作る時にも同じことをしていたわ。違う独楽を毎月作るわけじゃないの。作品によっては複雑なつくりで50個もの数を用意するのには長い時間を要したから。そういう物にはサインを付けたかも。これは江戸独楽の作品で、廣井先生の作品だという証明になるから。でも、うーん、私がいた当時は村の中にお店があったから、先生の作品はそこに並んでいなかったわね。全部、プロの職人になったお弟子さんの作品だったわ。真実はさておき、愛弟子の作品にも平等に買ってもらうチャンスを与えたいっていう、先生としての優しさじゃないかと思うの。先生のあの優しさは有難かった。先生自身はその場にいたけど、販売はしていなかったから、こたつに座ってお弟子さんと新しいデザインについて話し合ったりできる。私にはちゃんと真似して作れるように先生がお手本を作ってくれたけど、プロのお弟子さんは廣井先生との話し合いや説明の中から自分で作品を産み出さないといけない。その話し合いから出来た作品を見せに持ってきたら、廣井先生がここは丸くした方がいいとか指導するの。自分が説明したものと違う物を持って来れば、何度でも作り直させた。お弟子さんがよく話に耳を傾けるように訓練をしていたのね。何度かその話し合いの場にいたことがあるけど、ただ先生の説明を座って聴いているだけでも、みんなすごくワクワクしてたのよ。

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