友情の輪

宣教師時代に里帰りした際のできごとや、日本でできた友人について、そして廣井先生との特別な絆について語ったインタビュー

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マリナ・スーティ: 故郷のアメリカにいるご家族やアジアにいる親しいお友達とはどうやって連絡を取っていましたか?

ジャネル・ランディス: そうなの。私がいたあの頃は電子メールなんてなかった…手紙よね。母は書くのが上手だったし、妹も私も未だになんだけど、パソコンを持っていないの。妹は手紙に絶大な信頼をおいてるから妹には手紙を書かないといけないわ。それで書くのが上達するわけじゃないけれど。ペンの黒インクよりも修正液の白の方がたくさん使うわ。まぁとにかく、あの時は主に手紙で家族とやりとりをしていたわね。たまに電話もしたけれど、当時は電話するのに日本からインドへかけて…電話をかけるための予約をインド人に取り付けないといけなかったから、たくさん掛けることはできなかったの。しかも時々かからないこともあったから。でも日本はあの頃、産業技術が発達してきてた時期で…FAXがあったわ。未だにFAXを持ってる宣教師って結構いるの、楽に連絡を取れる手段だから。でも今の時代はみんなと同じようにインターネットよね。おそらく、それでも、インターネットなしで日本と連絡を取れるからFAXを未だに持っている宣教師達はかなりいると思う。

マリナ: アメリカへ里帰りする機会は多かったですか?前に言っていたみたいにー

ジャネル: えぇ。毎年、そうね1ヶ月くらい、日本にいる人たちが里帰りできる制度があったわ。私は5年いて1年か9か月の休暇があった。私は教師だったから一年中日本にいることはなかったのよね。4月から3月までの年度内いつでも代理の先生がいたし。私の里帰りは3ヶ月ごと、じゃなくて3年ごとに3ヶ月だったわ。ホーム・アサインメント(※1)…前は休暇という言い方をしていたけれど最近ではホーム・アサインメントと呼び方を変えたのよね。ホーム・アサインメントの3分の1は自分の余暇。3分の1…3分の2は委員の仕事をしたわ。だから里帰り中には外に出ることが多かった。できる時には自分で運転したものよ。だって自分の車がないときって、行く場所はドライバー次第で、同じ話を何度もしないといけないし。 ほら、誰かの朝食と誰か目的地を運転中の話で、[いつも同じの質問を聞かれたことは]滑稽な気分になったりするでしょ。色んな地域に行くんだけど同じ質問をしてくるから、テープ・レコーダーで返事を録音して再生したかったわよ。でも何度も戻る機会があって、行ったことある地域に割り当てられた。ペンシルバニアでは福音改革派がメジャーでキリスト連合教会ともコネクションがたくさんあった。南東部協議会、北東部協議会、中央協議会、西部協議会。地域ごとにもいくつか…オハイオには協議会もあったけど組合もあったわ。ニューイングランドの方には何かあれば頼れる人もいた。一泊してディナーとランチを取るだけじゃなくて、3日間同じところで過ごして同じ教会に属してる色んなグループの人たちと話せる機会があったの。一度会ったら、それで「さよなら」ってわけじゃなくてね、あらそういえば、日本からの宣教師がいたわ、彼女の名前なんだったかしら。コネチカット州ではグループに入っていくのが少し難しいなと思った、イタリア系の人がコネチカット州の協議会長をしてて、コネチカット・マフィアと呼ばれていたの。私の日程表を送ってきた人もイタリア系の人だったし。それでも、デピュテーション(※2)のために来た宣教師の扱いがうまかったわね。デピュテーションは宣教師の仕事の一つね。教会や宣教師派遣委員会から有給で派遣されて自分の経験を伝える機会がもてるのよ。一度新たに宣教師となる人についての記事か何かを書いたことがあったわ。

(※1 ホーム・アサインメント…宣教師が自国(=ホーム)でデピュテーションなどのアサインメント(=任務・仕事)をする。休暇と併せて里帰りをする)

(※2 デピュテーション…宣教師が教会に訪問して自分たちの活動の報告や働きの紹介をすること)

マリナ: マリナ:えぇと、その。日本にいたときのご友人やお知り合いはみんな日本人でしたか。もしくはみんな外国人か、両方同じくらいなのか。

ジャネル: 最初のうちは同じ配属先の宣教師と仲良くしていたけど…何年も過ごして、語学学校から戻ってからは友達のほとんどが日本人だったわね、宣教師仲間がそれと共ににどんどん減っていったわ。

最後の何年かは、宣教師が3人しかいなくなってた。音楽の先生と他に…もう一人の男性。それと同じ部署にいた女性。でも、彼女は大学にしかいなくて私は中高等学校にいたけど、彼女が病気になって働けなくなってしまったの。私はその時パートタイムだった。2006年が宮城の120周年記念で、私たちが日本に帰る、というか訪問するための資金を学校側が出してくれて行った時に音楽の先生と一緒になってね。日本訪問から戻ってすぐにその彼はカリフォルニアで亡くなってしまった。だから、宮城時代の3人の宣教師のうち生きているのは私だけ。

宣教師の奥さんの誰かが男子校で働いていると思う。ついに中学校を手伝うようになったのよ。彼女は長いこと宣教師委員会から外されていたの。すごく腹立たしかったわ。だって彼女がやってきたホスピスでの頑張りがやっと日本で受け入れられてきたところだったのに。ついに実現するってところで、宣教師委員会は彼女がどの組織にも属していないと言い出したの。4人も子どもを育てて、子どもも彼女も地域に根差しているのに。でも今では中学校で教師をしているから嬉しいわ。でも学校から直接お給料が支払われているから宣教師のリストに彼女の名前はないの。

あと若い子が一人いたわね。でも私たちの宣教師委員会では2人の宣教師をサポートしていて2人とも前任宣教師の子どもだった。1人は京都に、あと1人が仙台だけど、家族がいる関西にほとんどはいるみたいね。

マリナ: では、廣井先生との時間について訊いていきますね。

ジャネル: えぇ。いいわ。

マリナ: それでは、廣井先生に初めて会った時のことを話していましたけど、その前に廣井先生について知っていましたか。

ジャネル: いいえ。廣井先生は東京出身で仙台に住むようになったわけだけど、私は先生のことは知らなかったの。アマノさんを通して知って、アマノさんとタカハシさんが手助けするために廣井先生を訪ねていて、二人が廣井先生を見つけたの。新年の番組でインタビューするために凧づくりの職人を探していてね。男の子は凧揚げ、女の子はバドミントンをする。とにかく、凧職人が見つからなくて、ある日本人女性が、小さくて素敵な本屋さんをやってたんだけど廣井先生の知り合いだったの。それで仙台に独楽職人がいると知ったのね。そして廣井先生を見つけたら、具合がよくないことと、生活が苦しいことが判った。だから病院に連れて行って、自分たちを弟子に取ってもらうことにしたの。収入もできて、独楽づくりを再開してもらえるようにね。その頃に、私はアマノさんの奥さんと一緒にあのテレビ番組をやっていた、アマノさんの奥さんが番組助手で日本語担当、私が英語担当でね。まぁとにかく私は、TBSで働くアマノさんとアマノさんのお友達に、番組に出てくれと頼まれたの。それから廣井先生の家に連れて行かれて。廣井先生と奥さんに会ったの、おかしな家で。お店以外に2~3個部屋があって、仕事が終わった後は座ってお茶を飲んだ。

女性は私と廣井先生の奥さんしかいなかったから、たくさん話を聞いたの。楽しかったわ。こたつに入って話し合ってるのを聞くのが楽しみだった。女子中学校、女子高校、女子大の英語の教師で、色々な場面で生徒を引っ張っていく役割になる私としては、日本人男性とテーブルを囲んで彼らの話を聞くのはそれだけで素晴らしいことだったの。だって話の殆どは独楽づくりのことで、キリスト教の学校で宣教師をしているときとは全然違う友情を築けたから。私を仲間の一人としていつでも受け入れてくれたの。

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