ジャネルの布教活動

日本でキリスト教の宣教師として活動するジャネルの務めや考え方について、深く掘り下げたインタビューとなった。ジャネルがいた大学でのキリスト教信者の規模や、アメリカ人の友人でもジャネルの活動の意図を誤解している人がいたことを語っている

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テーマを明確にするためオリジナルのインタビューを少し編集したクリップとなります。このクリップを文字に起こしたファイルはこのページの下にあります。廣井のインタビュー全文はこちらにあります [ 準備中  ]。

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ジャネル・ランディス:まぁとにかく、宮城にいる友達も参加しているYWCAっていう団体で英語を教えていたの。私のような青い目のアメリカ人から見た日本について、どんな感想を持ってるのかスピーチして欲しいって頼んでくる人がいたけど。私の目は青くないのに。あはは。あれは女性団体だったかしら、どこかで日本の女性たちに向けて、話をしたことがあるの。でも、毎日 学校で教えるのに比べれば頻度は少なかったわね。

でも、月一度、私の家にすごく面白い団体の人たちが訪ねて来たりもしたの。それで私達はね…まぁかなり後でなんだけど。私たちは、一緒にいろんな種類の装飾を作ったの、クリスマスのための装飾だとかいろいろと。大学の女性スタッフのメンバーたちとね。それで、そう、学校は、私にとっては家族同然だったの。本当に家族だったのよ。だから女性スタッフはみんな私の可愛い娘。

マリナ・スーティ:教え子にキリスト教徒はたくさんいたんですか?

ジャネル:え?

マリナ:教え子はみんなキリスト教徒?それとも大部分がキリスト教徒?

ジャネル: いえいえ、そうじゃないわ。大学で年に一度お祭りか何かがあって、その時に学生が自分たちでアンケートを毎年取っていたのを覚えているけれど、そのアンケートでキリスト教徒の割合は1%にも満たなかったのよ。でもアンケートでは10%くらいの人が神道や仏教よりもキリスト教を好んでいることも判ったの。まぁそんな内容のアンケートを毎年やっていたわけではないけど。でも、キリスト教徒になりたくてもなれない、その1%を越えた人たちが私を支えてくれてると いつも感じていたわ。洗礼を受けれなくて。日本の女性は結婚すると、夫の家に入るでしょう。女性は、奴隷とまでは言わないけど、義母にこき使われてたりして、洗礼を受けれなかった。私のいた教会で、やっと家から出て教会に来ることができたっていう74歳の女性に度々付き添ってあげたのを覚えてる。

そんな人がたくさん、男性も女性も。ある男性がね、自分がキリスト教徒だと地元の人に知られないように、地元から遠く離れた教会に行っていたのも覚えてる。その男性が亡くなったとき、周りの人はどうしたらいいのか分からなかった。もしも、それで、もしも…あの…そう、私のキリスト教徒の男友達でもいたわね。彼がキリスト教に改宗したときに、ご両親も一緒に改宗したの、元いた仏教のお寺とは縁を切ってね。お寺と縁を切るのは大きな一歩よね、だって自分が当たりまえに入るはずだったお墓を捨てることになるんだから。そのご家族はお寺じゃなく、キリスト教の墓地を選んだわ。そして本当に改宗した。でもね、私の仕事は何人 洗礼させたか競うことじゃないのよ。

もし私が本を書くなら、タイトルは『Heartbeats and Headcounts (鼓動の数と頭数)』にするわ。帰ると尋ねられるの 『今日は何人教会に連れて来れた?』とか。人を改宗させることが宣教活動だと考えるような人たちもいるのよ。宣教活動は人々と生活を共にすることなのに。日本の暮らしを通して、私が誰かに教えたことよりも、ずっと多くのことを私は教わった。キリスト教徒になった人がキリスト教を選んだのは、その人たちがそうすると決断したからよ。私が彼らの代わりに決断してあげることなんてできないじゃない。

私の人生は変化に富んでいたから、たくさんの人たちに会う機会があったわ。日本だけじゃなく…インドとかタイとかね。職探しや職業訓練のために日本に来た人たちよ。東京の北の方にある田舎の施設で、宇都宮という大きな都市にとても近い場所だったけど。ある日本人キリスト教徒が設立した、アジアの国々にある地域で活動するリーダーたちをサポートする施設があって。 今ではアフリカや南アメリカからも人が来るようになった。いつでも訪問できたし、特別に何かイベントをするときには私の生徒を連れて行ったりもできたの。本当に自由にさせてもらってたのよ。だから、そうね、学校のルールに縛られてる感覚もなかったし…まぁ子供たちを間違った方向へ導かない限りはね。あはは。あぁ、本当に、自由にいろいろやってたこと。

マリナ:日本に来て最初のお仕事は何をしましたか?

ジャネル:今なんて?

マリナ:日本で初めてのお仕事は?

ジャネル:最初の仕事は1953年から1985年まで続いたわ。宮城学院の大学と中学校と高校で働いていた。そのうち何年かは中学校と高校の学部会議にも参加したりしていて。それ以外は大学と短大の学部にいて、第二言語としての英語を教えていたの。あれが私の宮城学院での最初で最後の仕事よ。

日本生活での最後の10年は東北に関連していたわね、宮城、山形、福島で東北会議をやってたの。私達より北の県は奥羽会議をしていた。東北会議では、人形を持って教会を訪ねて、いろんな年代の人たちと一緒に聖書についての講演をしたの。それとYWCAと一緒に活動したりもした。YWCAのある女性が素晴らしい人でね、英語で聖書を読むことに興味があったの。それと、幼稚園を訪ねる機会もあった。最近は、津波の被害があったから海の近くにあった幼稚園が未だにそこにあるのかは判らない。1995年にアメリカに戻ってからは私が行っていた教会と連絡が取れていないの。でも私はそういう教会の幼稚園に行っていたのよ。そういうところは規模が小さかった。教会自体に属している信者の数もすごく少なくてね、でも日本生活の最後の10年はそういう教会での活動が私のプロジェクトの一つだった。電車に乗ったり車に乗って旅することがたくさんあったわ。

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