廣井先生とジャネルの出会い, そして弟子入り

このインタビューでは廣井先生が仙台で放送された年始の番組でジャネルと初めて会ったときのことについて語っている。二人の友情の始まりや、弟子入りした独楽づくりの訓練の始まりについて話している。

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[25:42]

ポーラ・カーティス:で、あのう、東京と比べると仙台ではアメリカに対する態度が違いましたか。

廣井道顕:いや東京に、は、アメ、アメリカ・・・の人たちでは東京では会ってないんですよね。仙台来てからなんですね。戦後だから。だこれ今言ったように戦争終わったのも知らずに山ん中にいたくらいですから。だから東京では全然アメリカの人には会っていないし、で戦後、仙台に来てからですね。で特にあのランディス先生に会ってから、アメリカの人たちと親しく、してもらって。

ポーラ:アメリカ人に親しく、あのう、なる経験はなんで、あのそれは初めてですか。それとも、他のアメリカ人の友達がいましたか。

廣井: あーそいつはいなかったですね。少し会った程度ですね、みんなね。あのう・・・何かやっぱり頼まれて作ってやったり。うーんそんな程度で、あまり親しくっていうことは、言葉がほら通じないから。あの親しくなりたくてもなれなかったっていうか。でこっちもまだ、その頃うんと貧しくて、その日、生きてくのが精一杯な状態で。うん、なかなかもうアメリカの人は高嶺の花で、えへへ。もうこうやって「わーすげー」って見てる程度だったの。ほんであのう、ランディス先生と知り合ったのは、ほらこのテレビ、がキッカケ、だったんですね。

テレビ番組での廣井とジャネル
テレビ番組での廣井とジャネル

ポーラ:よく、あのテレビの番組で、あの江戸独楽を紹介しましたか。

廣井:ええ。ええ。すいぶんやってましたね。

ポーラ:それはNHKのプログラムでしたか。

廣井:NHKでもやったし、あのう、仙台の放送局全部。全部やりましたね。NHKも全国放送もやったし、ローカルでも。ローカルではずいぶんNHKでもやってもらったし、あと東北放送とか。ううん、今でもあの宮城テレビ「OH!バンデス」ていうのやってて。その番組でも何度か取り上げてもらったし。で今でもあの宮城テレビのウキガヤさんという人親しく付き合ってるし、でこれが東北放送の今言ったアマノさん、があのう、プロデューサーだったのかな、東北放送で。であのう、そのアマノさんの奥さんがランディス先生の教え子で。うん、そんな関係で。であのう「今度、アメリカの人、紹介すっから」なんて言われてて。で、そのうち、んで、空いたからテレビお正月、これお正月の番組だったんですね。で一緒に出てもらうから、でその時紹介ですから、なんて言われて。その前に会ったのかな。テレビに出る前に・・・うーんと・・・テレビに出る前・・・あ、話に聞いてたんだな。紹介すっからって言われててなかなか機会がなくて。でテレビで、んで一緒に出てもらうからっていうことで。うん、その時以来の。

[29:22]

ポーラ:あのう、その番組はどのような内容でしたか。

廣井:だからお正月の番組で、えー内容どうだったのかな。とにかくあのーお正月の縁起のいいものっていうことで、この江戸独楽の紹介を兼ねて・・・の番組だったのかな。ちょっと内容までは、あまり詳しく覚えてないんですけど。覚えてんのはこのアナウンサーの人が間違えて何度もやり直しさせられたっていう。(laughs) ずっとねランディス先生も分かってると思うけどね。へへ。よく話しているね。

[Segment 3, 20:21]

ポーラ:で、少しあのランディスさんの話に入りますが、ランディスさんとの出会いについて少し話していただけませんか。

廣井:あぁ・・・。ランディス先生一番最初会ったのは、テレビのときかな?その前会ってる気もするんだけど、会っていないような気もするし。その辺よく分かってないけど。一番・・・覚えてるのはそのテレビのときかな。でもその前にも会ってっから。その、このテレビがいつ放送したんだか忘れたもんな。

とにかくあのう、宮城学院の先生で、アメリカの人で、日本語ペラペラな人だからっていうことで。で、うんとこういうものに興味がある人だから、今度連れて来るからって言う。ええと、そのプロデューサーやってた天野さんって方から聞いて。でその後、さっき写真で見たあのテレビの、番組で一緒になって。なんかその前にも会っているような気もするんだけど、多分そのときが初対面ではないような。その辺ちょっとハッキリしなんですけど。とにかくその頃ですね。であのう、うちに来て、見て、喜んでもらって。で自分でも作りたいって言い始めて。で教えてくれっていうから教えてやって。うんん、やっぱりなかなかね。覚えるのが大変で。そんでもね、いろんもの作ったよな、ランディス先生な。

夫人:うん。馬車は馬車のあれも作ったし。

廣井:うん。そのとき面白かったのが、

夫人:馬車ぐるま。

廣井:あのう、うん。馬車あのう、映画のあの西部劇に出てくる開拓時代の幌馬車。ところが幌馬車、馬かなと思ったら牛付けたんですよね、ランディス先生ね。で、牛でなくて、馬でねえの?っつったっけ、『いや、本当は牛なんだ』って。で、なんで?っつったっけ、馬は速いけどすぐに疲れる。牛は遅いけど、どこまででも、スタミナがあって、あの行くので、そんであの、本当は、馬車でなく牛車なんだ、なんてね。で幌馬車を作って、牛付けたの。うん、今でもあれば、すごいんだけどな。そういうのも作ったしね。いろんなもの作りましたよ、うん。あと、自分で轆轤を作って、あの片平町だよな?

夫人:うん。

廣井:あそこにあの、小屋、小屋一つ作ってそこに仕事場作って、しばらくそこでやってましたけどね。アメリカに帰る、までやってたのかな?

夫人:うん。

廣井:そうだね。でアメリカに帰るんでその轆轤はアメリカへもう送って。で『アメリカに帰ってからもやるんだ』なんて言うから 「いや、道具つくりだのも覚えてないからちょっと無理でねえの?」ったけど、『いや、大丈夫だ』なんて言って。 『友達で機械に詳しい人いるし。刃物に詳しい人もいるから、その人たちに頼めば、何とかなるから大丈夫だから』っていうことで。で轆轤アメリカに送ったんですけど。さっき聞いたらあるって言ってましたよね。

ポーラ:あのう―

廣井:で、うん?アメリカで少しやってた、みたいですけどね。なんか、アメリカにも轆轤はあるんですけど、あのやり方がちょっと違うんですよね。で日本の轆轤のあのやり方は、アメリカの人たち、珍しいからって前はよく、見学に来たりしてたみたいですけどね。であのう、アメリカの、やっぱりあの、こう、轆轤協会っていうのがあって、世界轆轤協会って言ったけな。でアメリカにもなんか、何人かで、協会があって。でその会長さんが・・・鳴子、のこけし組合で、アメリカのその轆轤協会の会長さんご夫妻、ご夫婦を呼んだんですよね。で来たことがあるんですけど。で奥さんが会長で、旦那が副会長っつったかな。そして鳴子のこけし工人の人たちと交流して。でその帰りに、ここへ来たんですよね。でそのときに、その・・・人が作った、こう、こんなちっちゃな独楽作ってきたのね。このくらいの大きさの独楽を作って、得意になって来たわけ。で「こんな、負けてらんないな」と思って、もっとちっちゃいの作ったのね。このくらいのやつを。で、見したっけ 『いや、参りました』なんて言って。へへへへへ。こっち「勝ったー!」なんて、へへへへへ。大笑いしてね。握手してね。えらい喜んでもらったことはありますね。

[21:34]

ポーラ:ランディスさんを弟子として受け入れるのをちゅうちょされましたか。何か心配ありましたか。

廣井:いや、何も心配はなかったですね。うん。やっぱりあのう、日本人でなくて、ね、アメリカの方に覚えてもらう方がいいことだなと思って。でランディス先生はあの通りだからね。で自分であのこけしなんかを作ってたの、こう手で削って。でそれも見せてもらったんですけど。で是非轆轤で削りたいんだっていうことで。うんではっつうんで早速、もうその日のうちに轆轤に乗せてやって。で削るの色々教えてやっ…たのはいいんだけど、この言葉がところどころ通じないところがあってね。で面白いのが都合が悪いと『私アメリカ人だから分かりません』って言うんだ、へへへへへ。あの時みんな腹抱えて大笑いだったもんな。へへへ。

ポーラ:それは、あの、その、外国人の弟子は、はじ、はじめて…?

廣井:うん、初めてですね。へへへ…ええ。

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