ジャネルがフェミニストとして成長する過程や、生徒たちにジャネル自身の意見を共有したいという強い思い、そして日本に住む未婚のアメリカ人女性という立場について語っている。
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マリナ・スーティ:宮城で教師として働いていたとき、あなたは―、ただ授業を持つ以外に特別な仕事はありましたか?授業はどんな感じでしたか?
ジャネル・ランディス:そうねぇ。授業は、まぁさっき言ったけれど、時には女子中学生に教えることもあったの。15人くらいの子たちが一つの部屋に集まって、日本人の先生がやっていたような英語の勉強をしていたの。私は週2回教えていて、他の先生は毎日。だから私は日本人教師の補助みたいなものだったし、高校の授業でも同じだった。大学では、1、2年生の選択科目を教える機会が与えられたの。だから女性が向き合わなければならない問題について専念して教えようと考えたわ。私がフェミニストとして開花した時期だった。学生の中にも何人かフェミニストとして成長した子がいて。中でも1人、東京でアジアの国から出稼ぎに来ている労働者への教育を支援するような素晴らしい活動をするようになった子がいたわ。
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マリナ:先ほどフェミニストとして成長したことや女性が向き合う問題について触れましたね。戦後の日本においてご自身が女性として経験したことを教えてもらえますか?
ジャネル:いいわよ。そう、あれは、ニュージャージー州から来た人たちとニューヨークのゴッド・ボックス※を何て呼ぶかってことについて話していたときだったわ。主だった宗派の教会があるリバーサイド地域へ向かったときね。 車を待っている間に私は薬屋さんに寄って、初出版の『Ms.』という雑誌を買ったのだけど、それが私の人生を変えたの。当時は分からなかったけど…質問はなんだったかしら?
マリナ:あのう…
ジャネル:話戻しましょうね。
マリナ:えっと、女性として日本で生活することについて。
ジャネル:あぁ、日本で暮らす女性。そうね。アメリカに戻ったときにした会話があったからだったわね。選択科目のいくつかで、他の国では女性がどんなことをしているのかとか色々と教える機会に恵まれたの。それで、私自身の考えも広がったわ。でも、ある日本人の女性教師から、私が男性を卑下しているって反発があったの。私が、まぁ、反男性主義者みたいな。本当に傷ついたわ。そんなこと考えたこともなかったのよ、私が、そんな、一緒に頑張って働いている男性たちを見下すようなことをしようだなんて。その時に、あまり、きついフェミニストにならないように気を付けないと、って思った。
でもそうね、さっき言ったけど、独身女性として。私は私自身でいることができたし、誰かの奥さんっていうのとはちょっと違った扱いをされたわね。きっと誰かの奥さんだったら独身の私が得られなかった経験があったんでしょうね。でもその違いを嫉ましく思ったことはなかった。人はそれぞれの道が用意されてて、自分自身の道を歩まないといけないんだもの。他の人の道を真似して歩んだりできないんだから。でも、まぁ。私は絶対に…まぁ、絶対になんて言えないのよね。戦後の日本で女性として生きることは時に困難なことだったかもしれないわ。でも、アメリカ人女性として、独身女性として。私は日本人の女友達よりも自由だったわね。私はいつも– まだ世の中が積極的に進歩しているとは言えなかった最初の数年間、誰も私を結婚式に招待しなかった。でも歳月が過ぎれば、アメリカ人の先生がいることがすごく特別なことみたいな扱いになった。結婚式やらパーティーにたくさん呼ばれるようになった。でも、結婚式自体に行くことは滅多になかった。ほとんどが神道の寺社で執り行われたけど、結婚式のパーティーは大きなホテルとか式場でやってたから。大枚をはたいて披露宴をして、みんなにプレゼントを配ったりしてた。でも私は、何年経っても、呼ばれる側の人間だった。
※ゴッド・ボックス: ニューヨーク州、マンハッタンのリバーサイド通りにある19階建てのオフィスビルで、アメリカにある主だった教会や宗教関連の非営利団体がオフィスを置いているため通称ゴッド・ボックスと呼ばれている
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ジャネルのようなアメリカの女性たちに大きな影響を与えたMs.誌の誕生についてはこちらのNew York Magazineに載るオーラルヒストリーの特集をご覧ください。
以上の写真はジャネル・ランディス(右)と宮城学院女子大学英文学部の事務員です。