若い木工職人だった頃の廣井先生

廣井家の伝統的な江戸独楽づくりを復活させるに至る前に、木工職人として仙台でこけしをつくり売っていた廣井先生の経験についてインタビューの中で触れている。日本で江戸独楽を受け継ぎ、つくることのできる唯一の家系であるにも関わらず、つくった工芸品を売ることが難しかった当時の状況についても語っている。

テーマを明確にするためオリジナルのインタビューを少し編集したクリップとなります。このクリップを文字に起こしたファイルはこのページの下にあります。廣井のインタビュー全文はこちらにあります [ 準備中  ]。

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Young Hiroi-sensei.
若い廣井先生。

廣井道顕: うんとね。はじめは仙台に来てからー・・・あのう・・・いろんな、あの、木地屋さんの所で親父が働いていて、職人やってて。であのう、そのうちにね、この独立って、自分で、あのう、うち借りて、でやっぱ轆轤をつけて、で問屋に行って、こけしの下請け、をやってたんですよ。で、あーその頃もこけしを、お土産のこけしね、今の伝統のこけしと違うやつ。それがいっぱい売れて。で問屋があって、そこで、その「しらきじ」っていう絵の描かない、しらきじを請け負って仕事をやってたんですけども。そのうちにあのう、同じこけしやるんならば伝統こけしをやったほうがいいって言われて、そこにいる我妻さんっていう人の弟子にしてもらって、遠刈田系の伝統こけしっていうのをやるようになったんですよ。であのう、伝統こけしが今度う売れ、いっぱいブームになって、売れるようになって、であのう、東京へ、轆轤持って実演に、デパートに行って。で最初こけしをしてたんですけど、こけしだと時間がかかるから、あのう、独楽を、やったのね。

[00:18:40]

ポーラ・カーティス: はい。

廣井: そしたら、東京であのう、こけし集めるってイタリアと。郷土玩具っていうのが日本にあちこちにあのう会津だったらあの赤べこってありますよね。あぁいう郷土玩具をや、こけしを集めてる人たちが来て。えぇぇ独楽やってるけど、あの時はね、あのう、江戸独楽でなくて仙台だからっていうことで、仙台、ま、仙台独楽とか宮城の独楽とかって名前で。というのはあの、仙台市の物産店とか、宮城県の物産店で行ってたんもんですから。で仙台で行った時は仙台の独楽、宮城県で行った時は宮城、宮城の独楽っていうことで、やって。で人気があって、目の前ですぐできて回りますからね。で、それ見てた人が郷土玩具を集める人が、『お前、生まれ本当はどこだ』なんて言われて「いや東京です」と。「やっぱりな」っていうことになって。ほんであの、東京にも確か昔、江戸独楽って独楽の玩具がいっぱいあったはずなんだけど、いくら探しても、見つからない。って居たんだけど。「お前んとこでやってたことあるか」って言うから、「うちは代々、やってた」っつったっけ。「あぁ!見つけたー!」っていうことになって、そしてあのう東京で大騒ぎになって、江戸独楽見つかったっていうことで。であのー弟が東京へ行くことになって。で弟は東京で結婚して、でずうっとあのう、江戸独楽づくり。それがキッカケでこっちもこっちで仙台で、江戸独楽づくり。まぁ仙台でも江戸独楽、ある程度作ったんですけど、こっちの人にや分らないから、売っても売れなかったんですよね。

[00:20:40]

ポーラ: で、ご家族は先生が江戸独楽の職業を継いで続けることを思っていらっしゃったのですか。

廣井: うん、それしかなかったからね。えぇ・・・。だその、なんとか売って、昔通りに、食えないかなぁと思っていたんだけど、仙台では全然その通りで、あのう理解されなくて、売れなくて、で東京行って今言ったような状態で、それから売れるようになったんですけども。でその時あのう、江戸独楽よりもむしろそのこけし、伝統こけしの方一生懸命やってたんですけどね。

ポーラ 独立の江戸独楽の職人になった時はいつでしたか。

廣井: えぇぇ・・・いつだった。はっきり覚えってないよね。うん・・・。いつの間にかだからね、親手伝ってて。でいつの間にか轆轤のるようになってて。だからはっきりいつ何月何日何年のっていう、そいつはないんだね。

[21:45]

ポーラ: 弟子としての、ま、それは何年間ぐらいだったと思いますか。

廣井: んーそれも分んないなぁ。いつの間にかだからね。いつの間にか親手伝って親と一緒に、ま弟も一緒に、三人して仕事しているようになったかな。それが何月何日何年のなにって・・・決まりないからね。だからちょっと分らないよね、それはね。言われても。

ポーラ: これはあのう前の質問とあのう、少し同じところありますが、はじめて仙台にいらっしゃったのはいつでしたか。

廣井: 初めて仙台に来たのはね。ええと。昭和・・・何年だ。二十三年・・・。昭和二十三年だな、確かな。

ポーラ: で、どのような生活されましたか。

廣井: んーその時は・・・人の家に間借りっていうのしてたの。部屋、借りて。だからどういう風に暮らしたのかなぁ・・・。となんとなく暮らしてたって言うと変だけれども、親父が一生懸命なんか、仕事をやってたんですね。んで・・・とにかく転々と歩いたから仙台市内をね。長くいなかったから、あっちこっち。だから仙台だけでも、何か所くらい行ったんだろう・・・一か所、二か所、三、四、五、六、七。七回場所変え。

ポーラ: それは結婚する前でしたか。

廣井: 前。

ポーラ: 結婚してから・・・

廣井: 結婚してからは・・・ええと・・・結婚してからは・・・。あぁ、一回、二回だね。ここよ。ええと・・・東口んとこに、東えー東七番町で結婚して、袋原に移って、それからここだから、二度目ですねここ。

ポーラ: あの、仙台の、ま、色々なお住まいについてどのような思い出がありますか。特に目立つのはありますか。

廣井: うんと嫌な思いしたのはね。(laughs) 二箇所あるね。ものすごく嫌な、いじめられて、とんでもない目にあった場所が、二箇所あるね。後はみんな楽しかったですね。で特に独立してからは。あのう・・・仲間がいっぱいいたし、同じ年代の人たちが、いっぱいいてね。ほんと楽しかったの。一箇所なぜか一箇所、仙台中のこけし屋さんのほとんどが集まっている場所に、あのう独立して住んでいて、で隣近所って感じで、同業者の人がいっぱいいて。あーその時は今でも楽しいですね、思い出すと。でそこの、だからその、こけし教わった先生の息子さん、今、いるんですけど、この間も「あの頃が一番楽しかったなぁ」なんて、つくづく言ってたから。楽しかったですね。

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