もともと東京にいた廣井家は、第二次世界大戦中に何十万人もの死者を出し都市を壊滅させた空襲によって多大な損失をこうむった。廣井家がどのように東京から逃れ東北で新しい生活を始めたのか、廣井先生が初めてアメリカ兵を見たときの第一印象、そして戦争に対する廣井先生の思いなどに耳を傾けてほしい。
テーマを明確にするためオリジナルのインタビューを少し編集したクリップとなります。このクリップを文字に起こしたファイルはこのページの下にあります。廣井のインタビュー全文はこちらにあります [ 準備中 ]。
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[00:07:28]
ポーラ・カーティス: よろしければ、あのう少し戦時についてお話したいと思いますが、あのう、その時についてどのような思い出がありますでしょうか。
廣井道顕: 何・・・
ポーラ: 戦時の時。
廣井: 何の時?
ポーラ: 戦時の時。戦争。
廣井: あぁ。戦争中。戦争の時ね。あんなことするもんじゃないやね。戦争はね。絶対反対だよね。うん。だって、みんな殺されたんだもん。同級生一人もいないんですよ。みんな死んじゃったの空襲で。で隣近所の人も全部、誰もいない。
ポーラ: で、ご家族はその時・・・
廣井: 弟と母親が、未だに行方知れず。死んでると思うんですけど。あのう、届けに行ったら、確認したかったって言われたのね。確認できないんですよね。もう空襲でみんな焼けて、どれがどれだか、誰なんだか・・・。で確認はできないって言ったら死亡届けはダメだ、行方不明だって言われて・・・で今でも行方不明のまま。
ポーラ: お住まいはどちらでしたか、その時。
廣井: うんとね、正式に言うと、東京都、江東区、大島町。大島っていう所なんですけど、大島町三丁目、の四百十番地、これが本籍地です。
ポーラ: で、どのような生活をされていましたか。
廣井: 同じ、今と同じ。
ポーラ: と言えば・・・
廣井: うん、親父がこう、まぁ、色々な物を作って。
ポーラ: じゃ、その時は江戸独楽の、あのう―、
廣井: うん。戦争中でしたから、そんなに余計は、あのう、贅沢だっていうことで、あのう売ることを禁じられてて。で、あの、なんかね、こういう、ラベルみたいなシートみたいなものをもらうんですよ。それを張ったんじゃないと、売れなかった。で割り当てられて、月に何枚って。だから、それ以上のものできない状態で、あとはあのう、軍需品っていうか、戦争で使う道具の一部分を作らされてた。
ポーラ: へー・・・ 先生かご家族はなにか戦争に対して努力しましたか。
廣井: 努力どころかみんな、もう、そのころは何も言えなったしね。言うと、すぐにあの憲兵が来て捕まえに来られるし、悪い癖なんかやったら大変だったんだよ。でみんな、まぁ日本人全部そうだったんですけど。みんな「勝つんだ・勝つんだ」って言われて喜んで、いたんですけど。であのう一部の人は絶対日本なんか勝つは 勝てる訳がないなんていう人結構いて、そうするとみんな捕まっちゃうんですよね。だから皆何も言えなくて、心の中ではもう絶対戦争なんか嫌なのね。だって家族、働き手 みんなと、も、持ってかれちゃって、ほんで亡くなって、何の補償もないし。うち辺りも親兄弟、家財産、空襲でみんななくなっても、何の補償もない。一言の謝罪もない。天皇陛下に謝ってもらいたいのね。で、あの、靖国神社で、あのほら、日本の総理大臣がなぜお参りに行くか。ほんと不思議でしょうがない。すごい違和感を感じますね。あのう、韓国とか中国の人たちが怒る、以上に、腹が立つのね。
[00:11:56]
ポーラ: で、あのう、戦後の直後、お住まいは、あ、お住まいの住民はアメリカやアメリカ人に対する感想がどの感じでしたか。アメリカとアメリカ人に対する。
廣井: ううん。最初ね初めて見たから。へへへ。アメリカの人ってね。であのう、日本が戦争負けたこと知らなかったんですよ。というのは、あのう、空襲で焼け出されてからこっち来て、あのう白石の山の奥、うーんと鎌先温泉ていう所がある、弥治郎こけしっていう、こけし村っての今ありますけど、その陰の山の中に、あのー、小屋があって、小さな山小屋があって、そこに、住んでて、電気も水道何も何もないとこだったんですけど。あのう・・・戦争に負けたっつうことを全然知らないでいて。うんで親父が白石の町に行ったらなんだか、町の様子が変だっていうことで、で聞いてみたら日本負けたんだって。であのう、そこで、山小屋では冬は越せないからって言うんで、下に降りて白石の町の中へ移ったんですけど、その時はじめてアメリカの兵隊さんを見て、あの、ジープ、ねぇ!乗ってきて「オホ―」とビックリして。へへへ。何だこれはと思って。
ポーラ: 態度が、あのう、どのような態度でしたか。その、あの例えばジープを運転しているアメリカ人に対して。
廣井: いやぁ・・・どんなっていうよりね。びっくりして。たた、たまげてたね。で、この人たちと戦ってたんだぁと思うと、勝ってるわけないのになぁと思ったもんね。(笑)なんであんなめちゃくちゃなことやったのかなと思って。むしろ、当時の、偉い人たちの方に、腹が立ったもんね。偉い人なのに分かりそうもんなのに、なんでこんなむちゃくちゃな、訳の分かんないことして、日本人殺して。まぁ、うちだって、そうやって犠牲になったって、誰も、その、政府、の関係者の人、一言の謝罪もないし、何の補償もないし。むしろそっちの方に、腹が立ったのね。
ポーラ: 先生の感想は何でしたか。
廣井: アメリカの人に?
ポーラ: はい。
廣井: いやあ、素晴らしいと思ったね。いや本っ当にあのう・・・きのうまで敵だった人が、あんなに優しい人たちだとは。それでなんで戦争しちゃったのか、理解できなかったし。それであのう、あの時は白石の、国道沿いの、農家の家 借りてて、そこでやっぱりろくろを回してたんですけど、アメリカの兵隊さんが、あのうパイプ、あのマドロスパイプって、あの、タバコを吸う。それを修理を、あのう頼まれて、よく親父直してたけどね。
[00:15:35]
ポーラ: で、あのう戦後になって、あのう先生の生活がどのように変化されましたか。
廣井: もうガラリと変わって、えらい目にあったね。今言ったように、ほら、なんの補償もないんで、裸一貫っていうか金も何もないし、こっち来たって知り合いがいる訳じゃないし、で言葉もこっちの方言が全然、分からなくて。で色々あって、地元の人たちとなかなか、こうなんつうの、仲良くなれなくて、でもいざ仲良くなったら地元の人たちはすごく親切でねぇ。それで助かったんですけども。とにかく、えらい苦労したっていうか。食べるものもないし、着るものもないし、冬は寒いし。よく死ななかったなぁと思ったね。ふふふふ・・・。
Postcard photograph of a soldier with Japanese children published Kinouya postcard archive, retrieved from Kinouya Postcard Collection.