ジャネル宣教師になる

アメリカでの仕事に満足できず、ジャネルは日本で短期間  宣教師として活動することを決めた。宣教師になることを決断したときの話、日本への渡航の話、そして日本の仙台に降り立ってからのジャネルの体験に耳を傾けてほしい。

テーマを明確にするためオリジナルのインタビューを少し編集したクリップとなります。このクリップを文字に起こしたファイルはこのページの下にあります。ジャネルのインタビュー全文はこちらにあります [ 準備中  ]。

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マリナ: どうして日本に行こうと決めたのですか。

ジャネル: オハイオ州 トレドで集会に参加したら日本での活動の責任者がいたの―、実際には東洋圏全体のだったかしら、当時は中国もだったから。彼はとても熱心なプレゼンテーションをしてくれて私は本当に心動かされた、それで考えたの、短期で3年間、日本に先生として滞在できるプログラムがあったなって。だから、自分から志願して役員会へ申し出たら私を承認してくれたのよ。そして1953年の3月、私はサンフランシスコから横浜へ行く船で日本に向かっていたの。楽しい旅だったわ。

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14日間の船旅だった。でも到着したら私は4月から学校で仕事を始めることができた。日本で、学校は4月始まりで3月終わりなの。それからすぐに第二言語の英語を、中学生、高校生、大学生の女学生たちに教える仕事を始めたわ。そして、そうね、いい教材がなかったし、経験も全然なかったけれど私は愛情をもって仕事をしたし周りもそうだったから、始めて6ヶ月でこれを自分の仕事にしようと決めたわ。宣教師派遣委員会もそれを認めてくれた。そして次の年の1954年から1956年まで私は東京にいてアメリカ人や他の外国人向けの学校で日本語を習っていたのよ。

Pat Landis, Ruth Alice Steele, and Janell circa 1950.

マリナ: 日本に行くことについてご家族から強い反対はありましたか。

ジャネル: 母はいつでも私を応援してくれた。しばらく日本で生活した後、それで、そうね、父は病気を患って回復していたところで、私も回復していたところだったの、病気から。でも、日本に戻ろうと思った。あぁ、私は病気じゃなく怪我か何かしたんだったわ、とにかく父は私とテーブルに着いているときに言ったの『お前は素晴らしいことをしているよ』とか色々。でも、日本で仕事を始めた頃にはそんな風に思ってくれてるとは思わなかった。私が休暇で帰国すると父はいつも『でも、こっちでも働けるだろう』って言っていたのよ。でも母は一度もそういうことは言わなかった。母はいつも手紙で絶えず故郷とのつながりを作ってくれたし。だから、一度も後悔しなかったわね、それに、率直な意見は受け入れるわ。父は気に入らなかったみたい、家族と一緒にいたいと思う人だったから。

マリナ: 日本のどこに派遣されるのかはすでに決められていたんですか?なぜ仙台が選ばれたんでしょうか。

ジャネル: そうね、歴史的な理由があったの。当時の日本は、戦争の前ね、長老派教会の人が長老派教会の地域に行くのが典型だったわ。それと、日本のプロテスタント主義の歴史は教会がかなり賢かったという事実を示していることが興味深いわね。仙台は改革派の人たち、つまりドイツ改革派の人たちの、布教活動の中心地だった。私が仙台に行ったときには、故郷のアメリカで以前自分と繋がりのあった場所に行くことをまだ認めていたの。アメリカで私はドイツ改革派教会の出だったから。それで私は改革派教会の宣教師たちが1850年に創設した学校へ行くことになったのよ。

ハリスバーグ出身の男性が仙台に来て、日本人のキリスト教信者と男子校を設立して、それから牧師を輩出するには、未来の妻が必要があることに気づいて、その年の秋に女子高も始めたの。彼はハリスバーグ地域から二人の若い女性を連れてきた。私は福音改革派※との繋がりがあったことでそこの学校へ行くことになった。でも、それは一時的で・・・その日本での何年かは、えっと、宣教師の派遣はね・・・故郷の教会や、自分の経歴に関連のある学校へ宣教師を派遣することはしていなかった。だから、後にメソジスト教会信者やほかの教会の人たちが来てうちの学校で教え始めたけど、運のいいことに私たち他の教会の者でも学校の創設に歴史的なつながりのある者なら受け入れるというときに私は宮城に来ることができたの。

※E&R: Evangelical and Reformed Church

でも、うん、それは素晴らしところでね、仙台は人口30万ほどの都市だった。でも、繁華街に行けば、知り合いに会うことのできるようなそんな都市でね。それに、たくさんお店があって、そこの人たちは教育を受けさせるために自分の娘を宮城に行かせてた。だから私が入ると店の人が『おぉー!うちの娘の先生だ!』って。『娘の先生』は時々おまけしてもらえたりするのよ。ふふふ。でも本当に素敵なところだったけど、今では100万もの人がいる都市になったわ。そして私は2006年にあの場所に戻ったけど今住んでいなくて良かったと思う。

マリナ: 着いたときにはおいくつでしたか。

ジャネル: 日本に?私は27歳だったわ。8月28日に28歳の誕生日をお寺の墓地でピクニックしてお祝いしたのを覚えているわ。あははは。。 1日に生まれていたらできないお祝いよ、あはは、1日だったら1歳でやらないとだもの、でもこの28歳の8月28日を日本で迎えたのよ。

Photograph of San Francisco, California via Wikimedia Commons. Photograph of Janell and friends circa 1950 and young Janell in traditional Japanese clothing via Janell Landis.

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