2014年5月19日 [part 1]

Transcript of interview conducted May 19, 2014 with HIROI MICHIAKI by PAULA R. CURTIS with assistance from MALINA ROSE SUITY

Also present: MRS. HIROI

ポーラ・カーティス : あのう、先生はいつ、どちらで生まれましたか。ご出身はどちらですか。

廣井道顕 :  東京。

ポーラ:東京の・・・

廣井 : うん、東京のね。えと今、江東区っていう所ね。

ポーラ:あのう、子供の時の生活とご家族について少し、あのう、お話してくださいませんか。

廣井 : 子供の頃ねぇ。楽しかったね、子供の頃。へへへ。

ポーラ: なぜでしたか。

廣井 :  やっぱ友達もいっぱいいたし、近所に遊ぶ所もいっぱいあったしね。東京の下町だから。あー、近所の人もみんな、なん、なんって言ったらのかな、親しいっていうか・・・可愛がってもらったって言ったほうがいいのかな。

ポーラ:ご家族の歴史について少し説明してくださいませんか。

廣井 : あぁ、家族。うちの廣井家の?

ポーラ:えぇ。

廣井 :  廣井家の家族・・・家族・・・。ま、家族だったら、両親と兄弟なんですけど、廣井家についての歴史、ですか。

ポーラ:はい。

廣井 : それとも・・・

ポーラ: ま、どちらもよろしいですか。

廣井 : まぁ、家族は、父親と母親と、あと弟が二人と妹が一人いたんですけど。母親と妹一人が、戦争で、空襲で、行方不明。今でも行方知れずなんですけども。今現在は弟が横浜に、妹が大阪に嫁に行ったんですけど、これが亡くなって。病気で亡くなったんですけど、弟の方はもう、今世界中駆けずり回って、アメリカ・・・シアトルの名誉市民になっているし、あと、フランス、ドイツの博物館に自分のコーナーもあるみたいだし。あとフィンランドだかで、弟のやっぱ博物館だか美術館ができているんだそうですけど。ただ行ったことがないから分からないけどね。

[00:02:58]

ポーラ:そして廣井家は?

廣井 : 廣井家はね、大変なんですよ。江戸・・・えーとね、戦国時代だ。徳川家康の関ヶ原って、あのう徳川家康が勝って江戸に移った時に、途中関ヶ原から江戸へ戻る途中で、あのう、廣井家の先祖が、うーんと、あそこはどこだか場所ちょっと忘れてるんですけど、昔はあのう渡邊っていう姓だったんだそうですけど、廣井村っていう所に住んで、そこで医者をやてたんです。で、徳川家康が勝って江戸に入城というか、こう勝って江戸に戻る時  途中で知り合って、どういうわけで知り合ったかは分からないけれども、で江戸に一緒に来ないかって誘われて、それであの、廣井村だから渡邊じゃなくて廣井って名乗れって言われて。で、徳川家康の孫の・・・家光かな、に仕えて代々あの幕府の奥医者って言うか、奥医法眼って、最高の医者の位を持ってた。っていう話で、それはあの本にも載っているんですけど、その本見せますか?

ポーラ: あぁそうです。後で見てもよろしいですか。

廣井 : うん。

ポーラ: はい。本当にありがとうございます。

廣井 : あのう記録・・・の本があるんですよ。寛永だか寛政・・・何とか図鑑っつうんだな。それにうちのこと載ってるんですけど。ええ。

ポーラ: では、今の、あのう、ご家族なんですが、ご結婚されていますか。お子さんはいらっしゃいますか。

廣井 : 結婚はしたんだけど、なぜか子供ができなくて、ええ。

ポーラ:で、あのう、子供の時なんですが、どちらの学校を卒業しましたか。学歴について少し―、

廣井 : 学校ねぇ。あのう戦争に巻き込まれちゃったから、ろくに行っていないんだよね。

ポーラ:どこでしたか。

廣井 : うんとね。大島第二小学校っていうのが最後だったな。その前あのう、米沢に集団疎開って学童疎開ってのでやった米沢に半年ぐらい、半年くらいいたかな。また東京に帰ってきてから今度、戻るとすぐに空襲で、で家族散り散りになっちゃって、全国あちこち転々と歩いたらから、ろくに学校は行ってなかったですね。ええ。

[00:06:12]

ポーラ: ま、学校の時は、特に何か教科や科目に興味がありましたか。

廣井 : あぁ、勉強きらいでね。へへへ。体育だけが大好きだったの。

ポーラ: あのう、そうですね。じゃ、あのう、仕事、お仕事なんですが、江戸独楽の職人になる前、どのような仕事をすることがありましたか。

廣井 : あぁ・・・。そう言えば、色々なことをやりましたけど、長続きはしなかったですね。何やった?色々なことやったの。やったというか、手伝ったって言ったほうがいいのかな。働きに行ってお金をもらったことはなかったですね。

ポーラ: ま、特に好きな、あのう仕事はありましたか。その色々しましたが、特に好きなのはありましたか。

廣井 :  いやぁ、結局うちの今やっている仕事が一番よくて。他はあんまり好きなのはなかったですね。えぇ。

ポーラ: あのう、よろしければ・・・。よろしければ、あのう少し戦時についてお話したいと思いますが、あのう、その時についてどのような思い出がありますでしょうか。

廣井 :  何・・・

ポーラ: 戦時の時。

廣井 : 何の時?

ポーラ: 戦時の時。戦争。

廣井 : あぁ。戦争中。戦争の時ね。あんなことするもんじゃないやね。戦争はね。絶対反対だよね。うん。だって、みんな殺されたんだもん。同級生一人もいないんですよ。みんな死んじゃったの空襲で。で隣近所の人も全部、誰もいない。

ポーラ:で、ご家族はその時・・・

廣井 :  弟と母親が、未だに行方知れず。死んでると思うんですけど。あのう、届けに行ったら、確認したかったって言われたのね。確認できないんですよね。もう空襲でみんな焼けて、どれがどれだか、誰なんだか・・・。で確認はできないって言ったら死亡届けはダメだ、行方不明だって言われて・・・で今でも行方不明のまま。

[00:08:53]

ポーラ:お住まいはどちらでしたか、その時。

廣井 : うんとね、正式に言うと、東京都、江東区、大島町。大島っていう所なんですけど、大島町三丁目、の四百十番地、これが本籍地です。

ポーラ:で、どのような生活をされていましたか。

廣井 : 同じ、今と同じ。

ポーラ:と言えば・・・

廣井 : うん、親父がこう、まぁ、色々な物を作って。

ポーラ: じゃ、その時は江戸独楽の、あのう―、

HM:     うん。戦争中でしたから、そんなに余計は、あのう、贅沢だっていうことで、あのう売ることを禁じられてて。で、あの、なんかね、こういう、ラベルみたいなシートみたいなものをもらうんですよ。それを張ったんじゃないと、売れなかった。で割り当てられて、月に何枚って。だから、それ以上のものできない状態で、あとはあのう、軍需品っていうか、戦争で使う道具の一部分を作らされてた。

[00:10:13]

ポーラ:・・・そうですか。先生かご家族はなにか戦争に対して努力しましたか。

廣井 : 努力どころかみんな、もう、そのころは何も言えなったしね。言うと、すぐにあの憲兵が来て捕まえに来られるし、悪い癖なんかやったら大変だったんだよ。でみんな、まぁ日本人全部そうだったんですけど。みんな「勝つんだ勝つんだ」って言われて喜んで、いたんですけど。であのう一部の人は絶対日本なんか勝つは 勝てる訳がないなんていう人結構いて、そうするとみんな捕まっちゃうんですよね。だから皆何も言えなくて、心の中ではもう絶対戦争なんか嫌なのね。だって家族、働き手 みんなと、も、持ってかれちゃって、ほんで亡くなって、何の補償もないし。うち辺りも親兄弟、家財産、空襲でみんななくなっても、何の補償もない。一言の謝罪もない。天皇陛下に謝ってもらいたいのね。で、あの、靖国神社で、あのほら、日本の総理大臣がなぜお参りに行くか。ほんと不思議でしょうがない。すごい違和感を感じますね。あのう、韓国とか中国の人たちが怒る、以上に、腹が立つのね。

ポーラ:で、あのう、戦後の直後、お住まいは、あ、お住まいの住民はアメリカやアメリカ人に対する感想がどの感じでしたか。アメリカとアメリカ人に対する。

廣井 : ううん。最初ね初めて見たから。へへへ。アメリカの人ってね。であのう、日本が戦争負けたこと知らなかったんですよ。というのは、あのう、空襲で焼け出されてからこっち来て、あのう白石の山の奥、うーんと鎌先温泉ていう所がある、弥治郎こけしっていう、こけし村っての今ありますけど、その陰の山の中に、あのー、小屋があって、小さな山小屋があって、そこに、住んでて、電気も水道何も何もないとこだったんですけど。あのう・・・戦争に負けたっつうことを全然知らないでいて。うんで親父が白石の町に行ったらなんだか、町の様子が変だっていうことで、で聞いてみたら日本負けたんだって。であのう、そこで、山小屋では冬は越せないからって言うんで、下に降りて白石の町の中へ移ったんですけど、その時はじめてアメリカの兵隊さんを見て、あの、ジープ、ねぇ!乗ってきて「オホ―」とビックリして。へへへ。何だこれはと思って。

ポーラ: 態度が、あのう、どのような態度でしたか。その、あの例えばジープを運転しているアメリカ人に対して。

廣井 :  いやぁ・・・どんなっていうよりね。びっくりして。たた、たまげてたね。で、この人たちと戦ってたんだぁと思うと、勝ってるわけないのになぁと思ったもんね。(笑)なんであんなめちゃくちゃなことやったのかなと思って。むしろ、当時の、偉い人たちの方に、腹が立ったもんね。偉い人なのに分かりそうもんなのに、なんでこんなむちゃくちゃな、訳の分かんないことして、日本人殺して。まぁ、うちだって、そうやって犠牲になったって、誰も、その、政府、の関係者の人、一言の謝罪もないし、何の補償もないし。むしろそっちの方に、腹が立ったのね。

ポーラ:先生の感想は何でしたか。

廣井 :  アメリカの人に?

ポーラ: はい。

廣井 : いやあ、素晴らしいと思ったね。いや本っ当にあのう・・・きのうまで敵だった人が、あんなに優しい人たちだとは。それでなんで戦争しちゃったのか、理解できなかったし。それであのう、あの時は白石の、国道沿いの、農家の家 借りてて、そこでやっぱりろくろを回してたんですけど、アメリカの兵隊さんが、あのうパイプ、あのマドロスパイプって、あの、タバコを吸う。それを修理を、あのう頼まれて、よく親父直してたけどね。

ポーラ: で、あのう戦後になって、あのう先生の生活がどのように変化されましたか。

廣井 :  もうガラリと変わって、えらい目にあったね。今言ったように、ほら、なんの補償もないんで、裸一貫っていうか金も何もないし、こっち来たって知り合いがいる訳じゃないし、で言葉もこっちの方言が全然、分からなくて。で色々あって、地元の人たちとなかなか、こうなんつうの、仲良くなれなくて、でもいざ仲良くなったら地元の人たちはすごく親切でねぇ。それで助かったんですけども。とにかく、えらい苦労したっていうか。食べるものもないし、着るものもないし、冬は寒いし。よく死ななかったなぁと思ったね。ふふふふ・・・。

[00:16:36]

ポーラ: あのう、ま、戦後時代から、ま、戦後以来に、あのう現在まで、先生の心に特にあのう思い浮かぶ歴史的瞬間はありますでしょうか。

廣井 : 歴史的瞬間。

ポーラ: 一番影響、先生に影響及ばした瞬間とか。

廣井 : うんとね。はじめは仙台に来てからー・・・あのう・・・いろんな、あの、木地屋さんの所で親父が働いていて、職人やってて。であのう、そのうちにね、この独立って、自分で、あのう、うち借りて、でやっぱ轆轤をつけて、で問屋に行って、こけしの下請け、をやってたんですよ。で、あーその頃もこけしを、お土産のこけしね、今の伝統のこけしと違うやつ。それがいっぱい売れて。で問屋があって、そこで、その「しらきじ」っていう絵の描かない、しらきじを請け負って仕事をやってたんですけども。そのうちにあのう、同じこけしやるんならば伝統こけしをやったほうがいいって言われて、そこにいる我妻さんっていう人の弟子にしてもらって、遠刈田系の伝統こけしっていうのをやるようになったんですよ。であのう、伝統こけしが今度う売れ、いっぱいブームになって、売れるようになって、であのう、東京へ、轆轤持って実演に、デパートに行って。で最初こけしをしてたんですけど、こけしだと時間がかかるから、あのう、独楽を、やったのね。

[00:18:40]

ポーラ: はい。

廣井 : そしたら、東京であのう、こけし集めるってイタリアと。郷土玩具っていうのが日本にあちこちにあのう会津だったらあの赤べこってありますよね。あぁいう郷土玩具をや、こけしを集めてる人たちが来て。えぇぇ独楽やってるけど、あの時はね、あのう、江戸独楽でなくて仙台だからっていうことで、仙台、ま、仙台独楽とか宮城の独楽とかって名前で。というのはあの、仙台市の物産店とか、宮城県の物産店で行ってたんもんですから。で仙台で行った時は仙台の独楽、宮城県で行った時は宮城、宮城の独楽っていうことで、やって。で人気があって、目の前ですぐできて回りますからね。で、それ見てた人が郷土玩具を集める人が、『お前、生まれ本当はどこだ』なんて言われて「いや東京です」と。「やっぱりな」っていうことになって。ほんであの、東京にも確か昔、江戸独楽って独楽の玩具がいっぱいあったはずなんだけど、いくら探しても、見つからない。って居たんだけど。「お前んとこでやってたことあるか」って言うから、「うちは代々、やってた」っつったっけ。「あぁ!見つけたー!」っていうことになって、そしてあのう東京で大騒ぎになって、江戸独楽見つかったっていうことで。であのー弟が東京へ行くことになって。で弟は東京で結婚して、でずうっとあのう、江戸独楽づくり。それがキッカケでこっちもこっちで仙台で、江戸独楽づくり。まぁ仙台でも江戸独楽、ある程度作ったんですけど、こっちの人にや分らないから、売っても売れなかったんですよね。

ポーラ:で、ご家族は先生が江戸独楽の職業を継いで続けることを思っていらっしゃったのですか。

廣井:うん、それしかなかったからね。えぇ・・・。だその、なんとか売って、昔通りに、食えないかなぁと思っていたんだけど、仙台では全然その通りで、あのう理解されなくて、売れなくて、で東京行って今言ったような状態で、それから売れるようになったんですけども。でその時あのう、江戸独楽よりもむしろそのこけし、伝統こけしの方一生懸命やってたんですけどね。

ポーラ:独立の江戸独楽の職人になった時はいつでしたか。

廣井:えぇぇ・・・いつだった。はっきり覚えってないよね。うん・・・。いつの間にかだからね、親手伝ってて。でいつの間にか轆轤のるようになってて。だからはっきりいつ何月何日何年のっていう、そいつはないんだね。

[00:21:45]

ポーラ:弟子としての、ま、それは何年間ぐらいだったと思いますか。

廣井:んーそれも分んないなぁ。いつの間にかだからね。いつの間にか親手伝って親と一緒に、ま弟も一緒に、三人して仕事しているようになったかな。それが何月何日何年のなにって・・・決まりないからね。だからちょっと分らないよね、それはね。言われても。

ポーラ:これはあのう前の質問とあのう、少し同じところありますが、はじめて仙台にいらっしゃったのはいつでしたか。

廣井:初めて仙台に来たのはね。ええと。昭和・・・何年だ。二十三年・・・。昭和二十三年だな、確かな。

ポーラ:で、どのような生活されましたか。

廣井:んーその時は・・・人の家に間借りっていうのしてたの。部屋、借りて。だからどういう風に暮らしたのかなぁ・・・。となんとなく暮らしてたって言うと変だけれども、親父が一生懸命なんか、仕事をやってたんですね。んで・・・とにかく転々と歩いたから仙台市内をね。長くいなかったから、あっちこっち。だから仙台だけでも、何か所くらい行ったんだろう・・・一か所、二か所、三、四、五、六、七。七回場所変え。

ポーラ:それは結婚する前でしたか。

廣井:前。

ポーラ:結婚してから・・・

廣井:結婚してからは・・・ええと・・・結婚してからは・・・。あぁ、一回、二回だね。ここよ。ええと・・・東口んとこに、東えー東七番町で結婚して、袋原に移って、それからここだから、二度目ですねここ。

ポーラ:あの、仙台の、ま、色々なお住まいについてどのような思い出がありますか。特に目立つのはありますか。

廣井:うんと嫌な思いしたのはね。(laughs) 二箇所あるね。ものすごく嫌な、いじめられて、とんでもない目にあった場所が、二箇所あるね。後はみんな楽しかったですね。で特に独立してからは。あのう・・・仲間がいっぱいいたし、同じ年代の人たちが、いっぱいいてね。ほんと楽しかったの。一箇所なぜか一箇所、仙台中のこけし屋さんのほとんどが集まっている場所に、あのう独立して住んでいて、で隣近所って感じで、同業者の人がいっぱいいて。あーその時は今でも楽しいですね、思い出すと。でそこの、だからその、こけし教わった先生の息子さん、今、いるんですけど、この間も「あの頃が一番楽しかったなぁ」なんて、つくづく言ってたから。楽しかったですね。

ポーラ:で、あのう、東京と比べると仙台ではアメリカに対する態度が違いましたか。

廣井:いや東京に、は、アメ、アメリカ・・・の人たちでは東京では会ってないんですよね。仙台来てからなんですね。戦後だから。だこれ今言ったように戦争終わったのも知らずに山ん中にいたくらいですから。だから東京では全然アメリカの人には会っていないし、で戦後、仙台に来てからですね。で特にあのランディス先生に会ってから、アメリカの人たちと親しく、してもらって。

ポーラ:アメリカ人に親しく、あのう、なる経験はなんで、あのそれは初めてですか。それとも、他のアメリカ人の友達がいましたか。

廣井: あーそいつはいなかったですね。少し会った程度ですね、みんなね。あのう・・・何かやっぱり頼まれて作ってやったり。うーんそんな程度で、あまり親しくっていうことは、言葉がほら通じないから。あの親しくなりたくてもなれなかったっていうか。でこっちもまだ、その頃うんと貧しくて、その日、生きてくのが精一杯な状態で。うん、なかなかもうアメリカの人は高嶺の花で、えへへ。もうこうやって「わーすげー」って見てる程度だったの。ほんであのう、ランディス先生と知り合ったのは、ほらこのテレビ、がキッカケ、だったんですね。

ポーラ:よく、あのテレビの番組で、あの江戸独楽を紹介しましたか。

廣井:ええ。ええ。すいぶんやってましたね。

ポーラ:それはNHKのプログラムでしたか。

廣井:NHKでもやったし、あのう、仙台の放送局全部。全部やりましたね。NHKも全国放送もやったし、ローカルでも。ローカルではずいぶんNHKでもやってもらったし、あと東北放送とか。ううん、今でもあの宮城テレビ「OH!バンデス」ていうのやってて。その番組でも何度か取り上げてもらったし。で今でもあの宮城テレビのウキガヤさんという人親しく付き合ってるし、でこれが東北放送の今言ったアマノさん、があのう、プロデューサーだったのかな、東北放送で。であのう、そのアマノさんの奥さんがランディス先生の教え子で。うん、そんな関係で。であのう「今度、アメリカの人、紹介すっから」なんて言われてて。で、そのうち、んで、空いたからテレビお正月、これお正月の番組だったんですね。で一緒に出てもらうから、でその時紹介ですから、なんて言われて。その前に会ったのかな。テレビに出る前に・・・うーんと・・・テレビに出る前・・・あ、話に聞いてたんだな。紹介すっからって言われててなかなか機会がなくて。でテレビで、んで一緒に出てもらうからっていうことで。うん、その時以来の。

[00:29:22]

ポーラ:あのう、その番組はどのような内容でしたか。

廣井:だからお正月の番組で、えー内容どうだったのかな。とにかくあのーお正月の縁起のいいものっていうことで、この江戸独楽の紹介を兼ねて・・・の番組だったのかな。ちょっと内容までは、あまり詳しく覚えてないんですけど。覚えてんのはこのアナウンサーの人が間違えて何度もやり直しさせられたっていう。(laughs) ずっとねランディス先生も分かってると思うけどね。へへ。よく話しているね。

ポーラ:では、少し、あのう、秋保についての、あのう、話に入りますが、あのう、いつ秋保工芸の里に住むことになりましたか。

廣井:ちょうど二十五年前。ここが、オープンしたですけど、その何年前、三年ぐらい前だから、うんんと今から二十、八ヵ年前、八年ぐらい前かな。あの今度うんと、宮城、県で、あのう、こういう工芸の里みたいなのを作るから、一緒に行かないかって声をかけてもらって。で色々集まって話して、で県に行って話して。であのう街中でだんだんあのう、仕事がやりにくくなってきたんですよね。あのう、うるさいとか、ゴミが立つからとかって、公害だ何だって言われて、仕事がだんだんやりにくくなってて、何とかこう、そういう街中から出て、誰にも何も言われない場所を作りたいなっていう話で。であのう、同じ同業ばかりでなくて、色んな異業種の人たちとも一緒になって。ほんで県に交渉して、ではっていうことで、この秋保、まだ仙台市でなかったんですね、秋保は秋保で、秋保町だったんですけど。で秋保町、秋保と、それから県の、山があるから、でそこを、作って、そこにあのうみんな移るように、したらいいんじゃないかっていうことで。最初二十、二十人ぐらいいたんですよ。で、だんだんだんだん煮詰まってって、最終的に、ええ十二件になったのかな。で順で十二ヶ所土地作ったんけど、結果、入ったのが、うーんと八軒。で空いている場所が四ヶ所あって、で後から、一人、入ってきて、その一人の人が二ヶ所まとめて買って。で今も二ヶ所残ってるんですけど。うーん、で結果的に、オープンした時は、うん?待てよ。オープンの後でツルコさんが買ったのか。オープンした時は八軒だったんですね、八人だったのね。それから二年か、三年ぐらいして一軒入って九軒になった。今九軒で。そのままずっと今も続いてるんですけど。

ポーラ:どのような専門ですか。

廣井:ええと、うんだから、あれ、パンフレット見ると一番分かりいい・・・ここで分る。あぁこれがこけし屋さん。こっちの隣。で、ここはうちね。でこれがそっちの。

これはあのお茶の道具。茶道具を作っている人なんですけど。あとそれからそっちの向かいの・・・トイレの脇が箪笥、仙台箪笥。で、その隣がこの彫刻、やっている人で。その向かいっ側の人がこれ後から入ってきた織物をやってる人。この人が後から入ってきたんですけど。でその隣がやっぱりこけし屋さん。この人は元々 秋保の人で。で秋保でこけしを作って、いた人なんですよね。で地元の人、ただ一人なんですけど。

で後はその隣がこれ埋もれ木って、これもあの、もう全国でただ一人になっちゃったんです。埋もれ木細工っていうの、やっている人なんですけど。これ仙台独特のもので、あのう・・・石炭になる前に亜炭というのがあって、その亜炭にまざって埋もれ木っていう、亜炭層から出てきた、あのう、なんというかな。炭化したような、要するに埋もれている木なんですけど。それ削ってこうやるとすごく素晴らしいのができるので。で仙台の名物で、何人も職人さんいたんですけど今たった一人になっちゃってんの。

で、これ、これがその隣で、これがほら、あのう、伝統こけしの先生。私が教わった先生のところ、我妻さんってね。でこの近辺なのか、今。だからあのう、同業の方は二軒、こけし屋さん・・・あ二軒、三軒か。あぁ。こけしやってた人は三軒、あぁ俺もやってたから四軒か。ま、こけし屋さんが多いね。うん。こけし屋さん以外が一店、二店、三軒、四軒。んー五軒か。でこけしやってた 、こけしばかりでなく、こういう轆轤っていうんで色々、ま江戸独楽も含めてですけど、そういうのが四軒で。で九軒ですね。

ポーラ:あのう、そしてまぁ職人としての生活にはあのう、一番難しいことが何だと思いますでしょうか。

廣井:一番難しいこと・・・難しいことばっかりだな。(laughs)簡単なのっつうのはないですね。どれが一番難しいって言われると、全部難しいね。一番、逆に嬉しいのが、お客さんとか、買ってもらった人が喜んでくれる。ワァァってやってくれっと、ものすごく嬉しい。後は毎日苦しんでいます。(grins)

ポーラ:(laughs) その、まぁあの難しいことが、もちろん、多いと、おっしゃいましたが、まぁあの時間とともに、ま、多少変化しましたか。何が難しいか、あのその、ビジネスとか、売るのとか。

廣井:まぁ職人として難しさは、やればやるほど難しくなってくのね。あと、売る、売るのは苦手なんだよね。だからね、うん、損ばっかりしてんのね。

ポーラ:で、あの職人の、あの職業がだんだん消えつつあると思いますでしょうか。それはなぜだと思いますか。

廣井:あぁ!そう。これが一番、あのう困ったことだなと思って、あのう・・・なぜか日本は職人て言うと軽く見られるんですよね。で職人がいないと、あのう、日本の大企業だって成り立たないはずなんだけども、なぜか職人は、馬鹿にされるしね、軽く見られるし。あのう・・・行政の方でも職人は軽く見て、何の援助もしてくれないしね。援助が欲しくて言うんではないけど、もっと大事にして欲しいなと思うのね。

だって日本が今こんだけ技術が発達してんだってその底辺ていうか、一番下には職人が必ずいるんですよね。職人がモノを作って、それを今度機会で大量に作ってって。であの、大企業が成り立って。で、その職人がだんだんいなくなってくれば、あのう何か今度やろうつったって何もたぶんできなくなると思うんですよね。だから、職業は、色々職人もあるけども、もうとにかくその職人っていう人をもっと大事にしてほしいなあと。まぁ希望ですけどね。

ポーラ:ではあのう、現在は、昔と比べると、弟子が多かったですか。

廣井:あぁ、うん。だからね。あのう、これはね、なんで弟子を多くしたかというと、あのう伝統こけしをやって、うんん・・・あの、こけしやっている人も何人もいたし。だからそれを集めてる人もいっぱいいたんですけれども。で、こけし描いてて、で売って、あのう収集している人に売って、どうのこうの、あれがダメだの、これがダメだのと、難しいこと言われて、うんと悩んで、でも一生懸命やって、ある程度できるようになって。まぁ本なんかでも、

こけしの本とか必ず名前が載るようになって。でそん時にね、気が付いたんですよ。『あぁ、うちにはこけしよりもっと大事なものがあった』って。こけしはいっぱいこけし屋さんがいて、完全に残っているけど、うちの江戸独楽はうち一軒なんですよね。日本中で。ということは世界中で。それを引き継いだのは俺と弟の二人だけで。日本では、でうちの場合は、あの、こけしみたく一つだけではなくて、何百何千って数があるものですから。一人でそれを再現して残しておくっていうことが不可能だなってのが気付いて。これは弟子をいっぱい増やさなきゃならないと思って。そんであのう、こけし屋さんの、若い跡取りを・・・あのううちに来たんですよ、あのう、これから先こけしだけでは、生活していかれなくなるんでねえかっていうことで他のことも覚えたいんだって、若いのが。

あの時ね、うちであのう、一人、あのう今の前田くんみたく一人あのう、教えてやってたのがいたのね。それがあのこけし屋さんの息子で、あの小原温泉の、人なんですけど、これも有名な人なんですけど、その人の子供で。雄介、本多雄介っていう。それがあのう、白石で、あのう、弥治郎系のこけし屋さんの息子たちの、子供たちの若い人の集まり、で七人いるんだって。で、その雄介が『今自分はこういう所でこういうもの習ってんだ』っていう話をしたらば、みんなそういうの覚えたいなっていうことになったって。で『教えてくれるか』って来たから。本当かってったら『本当だ』って言うのね。で、『みんな連れて来い』っつって。でそん時七人、白石から来たんですよ。では、教えてやったっていうことになって。

でまぁ、うちの品物はこけしと違って、種類がいっぱいあるし、遊び心がいっぱいなきゃならないので、まず『うちに来るんだったら真面目になってないで遊びな』っつったの。したっけ『えええ!』なんてみんなビックリして。へへへ。で、一人、本気になって遊んで、彼女見つけて結婚して。へへ。

今、こけしでは弥治郎で一番ぐらいになってるね。でそいつ、こ、独楽できなかったのね。まだあのう習い始めて半年だかって言うんで、ほとんど独楽できなくて。ほんで、こけし、ま親がこけし屋さんだから、で、まず、でまずこけしやったらいいでねえかっつうことで。で、こけし一生懸命やって。他の人たちはみんな独楽やって。したらみんな親たちにてっきり『怒られるかな、文句言われっかなあ』と思って『大事な、跡取り息子に余計なこと教えた!』なんて怒られるんじゃないかと思ってたら、みんな親たちが来て「宜しくお願いします」ってここでね、みんな頭ついてったね。七人とも。これには、逆にこっちの方でビックリしちゃって。『あぁこれ本気なんだな』と思って、ほんで一生懸命教えてやって。で、大体一人でもう百種類ぐらいは覚えたんのじゃないのかなと思うんですけどね。

ポーラ:あのう、まぁこの職人の職業がその、あのう消えつつある問題についてですが、どうすればいいと思いますでしょうか。あのう、そのまあ、人気があるように。

廣井:あぁ。そうね。

ポーラ:何かできますか。

廣井: そういうのがあると本当いいんですけどねえ。残念なことに日本にはまだそういう制度ないし。もうちょっと、偉い人がさっきも言ったように職人に、えぇ、こう、目を向けてくれれば、少しは、伝統的なものとか、技術が、残るんじゃないかな。で、若い人も、職人に、結構職人になりたい若い人いるんですよね。でも、職人の世界って難しい。で職人っていうのは頑固でなかなか。こう、馴染めないっていう、そっちのイメージの方が多くて恐ろしがってね、へへへ。なかなか『やりたくてもなぁ・・・』っていう人結構多いんですよね。だから、そういう人たちにね、もっとこう、スムーズに馴染んでもらって。育てたいな、と思っていたんですけど。ええと、去年ね、ええと一年半、仙台市で、この工芸の里で、後継者の育成をしようっていうことで市の、市がお金を出してくれて。で五人、入れたんですね若い人を。

で、あー、市で給料を出してくれて。ほんで教える方も、謝礼金として結構なお金、もらったんですけど。一年半続けて、で今年の三月でそれ終了したんですけど。んで結果的に残ったのが、うんと、小竹さんのとこに一人、うちに前田くんいるし、もう一人あのう、みさちゃんって女の子がいるんですけど。三人残ったんですけど。で、そういうことをもう少し続けてやってくれれば、もっと若い人が来ると思うんですけどね。で、あまりこう難しい条件、つけないでやってくれって言うんですけど。で今回はね、そんな難しい条件でなくても良かったし。で五人来て、ま結果三人残ることになったんですけど。大成功でないかなと思うんですけどね。でこういうことを、こう繰り返し、市ばかりでなくてね、県とか国で、やってくれれば、若い後継者が日本中で結構増えると思うんですけどね。でまあ、同じ職人でもほら、うんとお金のある、所はね、自分の所でどんどん若手を育てることできるけど。我々みたいにお金のないのはね、それこそ前田くんでもみたくアルバイトをしながら、でも習いたいっつうんで来てた。そういう人たちあの、ホンモノになれると思うんですよね。だから、そういうところにね、もうちょっとこう、手を差し出てくれれば、もっと若手育てられて、日本も、もうちょっと豊かになれるような気がするんですけどね。

 

[後は準備中]

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